『アングスト/不安』|“恐怖”ではない。“加害”を体験する映画。
- Yu-ga

- 5月15日
- 読了時間: 3分
更新日:5月21日

🎥 『アングスト/不安(Angst)』
監督:ゲラルト・カーグル
撮影:ズビグニエフ・リプチンスキ
出演:アーウィン・レダー 他
制作年:1983年(オーストリア)
ジャンル:サイコ・スリラー/ホラー
上映時間:87分(※リストア版あり)
1983年。オーストリアで公開されるや否や各国で上映禁止の波にさらされ、幻の一作となった『アングスト/不安』。封印されたのは過激さゆえか? それともあまりに正確に暴力を描きすぎたからか? ── その答えは観た者にしかわからない。本作は我々が普段見ないようにしている「暴力の内側」そのものだ。スリラーでもサスペンスでもない。ジャンルを解体した先に現れる“殺意という視点”だけが画面に存在している。
■ ストーリー:モノローグで綴られる、衝動の解放
物語は刑務所を出所したばかりの男が再び「人を殺す」ために行動を開始する、というだけ。名前も明かされない彼がターゲットにしたのは山奥の一軒家に住む家族。
だがこれはサスペンスではない。殺人者の頭の中で響き続ける“独白”が物語を支配する異常な構造で展開されるのだ。
この映画に登場するのは、犯人・家・犠牲者たち・観客(=自身)。そして唯一語るのは彼の頭の中の声だけ ── 。
■ カメラが“加害者の眼”になるという恐怖
本作の最大の特異性は、撮影監督ズビグニエフ・リプチンスキによる革新的な視覚演出にある。ステディカムやカスタムリグを駆使し、カメラはまるで“男の意識”そのもののように宙を漂い、床を這い被写体を不気味に覗き込む。
そのため、観客は常に彼と“同じ場所”に置かれるのだ。彼の犯行時でさえも逃げることはできない。我々は傍観者ではなく“共犯者”にさせられるのだ。
■ 音と内面 ── クラウス・シュルツェによる悪夢のBGM
クラウス・シュルツェ(元Tangerine Dream)による電子音楽は内面のざわつきを音像化したかのように絶えず画面にまとわりつく。不穏で無機質、そして粘着質な音だ。
サイケデリックかつ冷徹なそのサウンドが映像とともに観客の神経を徐々に削っていく。また、男の語る独白は終始抑揚がなく、まるで法廷での供述記録を読み上げているかのよう。情動の欠落こそがこの映画の真の恐怖である。
『アングスト』は徹底して観客のモラルを試す。血しぶきが飛ぶからではない。演出が冷たすぎるからでもない。“倫理的に説明できないもの”をそのまま提示するからだ。たとえば『時計じかけのオレンジ』や『セブン』には暴力を制御する“物語の骨格”がある。だが『アングスト』にそれは無い。終わってもカタルシスは訪れない。罪悪感とただの生理的不快感だけが残る。それでも観てしまう。そして観たことを決して忘れられないのだ。
■ 現代へ:再評価とカルト化の波
この映画は長らく地下で語り継がれてきた。だがやがて『ドライヴ』のニコラス・W・レフンや『ブラック・スワン』のダーレン・アロノフスキーがその影響を公言し、再びスポットライトが当たる。
彼らが影響を受けたのは単なる“描写の激しさ”ではない。「視点=暴力」という視覚言語の圧倒的説得力にある。
『アングスト/不安』は“暴力をどう見せるか”ではなく“暴力にどう巻き込むか”を問う映画だ。たった87分の映画だ。だがその時間は観る者にとって長く深く記憶に残る“沈黙の地獄”になる。これは“怖い映画”なのではない。これは“自分が怖くなる映画”なのだ。


