現実に最も近い悪夢──レミー・ベルヴォー『ありふれた事件』の毒牙
- Yu-ga

- 7月13日
- 読了時間: 7分

🎥『ありふれた事件(原題:C’est arrivé près de chez vous)』
監督:レミー・ベルヴォー、アンドレ・ボンゼル、ブノワ・ポールヴールド
撮影監督:アンドレ・ボンゼル
出演:
、レミー・ベルヴォー、アンドレ・ボンゼル
公開年:1992年(日本公開は1993年)
ジャンル:モキュメンタリー、サイコスリラー
上映時間:95分
映画『ありふれた事件』はモキュメンタリーという手法を用い、連続殺人犯の姿をドキュメンタリー風に追いかけるという構成で展開する。虚構でありながらも、どこまでも現実に肉薄したその映像は単なるフィクションを超え「我々がカメラを通して何を消費しているのか」という深い問いを突きつける。
本作はまだ若き日のベルギーの三人の映画作家──レミー・ベルヴォー、アンドレ・ボンゼル、そして主演も務めるブノワ・ポールヴールドによって共同制作された。予算はわずかに過ぎないが表現のエネルギーと皮肉に満ちた知性が詰まった作品である。
■主人公ベノワという「怪物」──笑顔のまま人を殺す男

主人公のベノワは家族も仲間もいる陽気なベルギー人でありながら、日常の合間に老女や移民、カップルを殺す。しかもその姿には一切の憐憫や正義感がない。彼は「死体の処理にはコンクリートを使う」などと明るく語り、経済論や哲学めいた独白を交えながら淡々と人を殺していく。
演じるのは共同監督でもあるブノワ・ポールヴールド。彼の演技は圧倒的で暴力的衝動と知性を同居させたキャラクター造形はまるでジャン=ポール・ベルモンドとハンニバル・レクターを掛け合わせたような怪物である。観客は彼の軽妙な語り口に笑いながら、気づけば倫理の崖に立たされている。
■モキュメンタリーという手法の冷たさと狂気
本作の最大の特徴は、その撮影スタイルにある。いわゆる「フェイク・ドキュメンタリー」と呼ばれるモキュメンタリー手法を徹底し、全編16mmの手持ちカメラで撮影されている。画面にはぶれや粗さがあり、しばしばマイクの音声が割れ、撮影クルーのリアクションもフレームに入ってくる。
この演出がリアリズムを強調するのではなく、むしろ現実に対する「麻痺」を生み出す仕掛けとなっている。観客はベノワの殺人に次第に慣れ、撮影クルーの倫理的な破綻も含めて「見てはならないものを見続ける」状態に陥っていく。倫理が剥がれ落ちる過程を我々自身がスクリーン越しに追体験させられるのである。
■映像の“手触り”──16mmの粒子に潜む暴力の美学
アンドレ・ボンゼルによる撮影は粗雑さと即興性に満ちているが、計算された構図も随所に見られる。モノクロの映像は美しく、血の色すら感じさせない冷淡な光と影が暴力性を逆説的に美化する。特に遺体を沈める川辺やベノワの独白を撮る廃墟など、風景の寂寥感が人物の狂気と共振している。
また、音楽の使用も最小限に抑えられているが、だからこそ突如挿入されるクラシックの旋律やベノワが口ずさむシャンソンが異様な印象を与える。静寂と雑音のあいだで観客は不安を募らせ、暴力の余白に潜む想像力が膨張していく。
■社会風刺としての構造──“犯人”だけが悪いのか?
『ありふれた事件』の優れた点は単なるサイコパスの記録にとどまらず、社会そのものへの鋭利な風刺を内包している点にある。ベノワは時に階級論を語り、都市構造の問題を述べ、文化芸術にも言及する。彼の言葉には真理が混ざり、それが行動の不条理さを一層際立たせる。
さらに撮影クルー自身も次第にモラルを失い、やがては殺人に加担するようになる。ここにメディアの共犯性、報道倫理、視聴者の責任といったテーマが忍び込んでくる。誰もが無関係ではいられない構造が『ありふれた事件』を単なるショック作から現代におけるメディア批評の文脈に引き上げている。
■カルト映画としての永続性──観る者に付きまとう「後味」

本作はベルギー映画界におけるカルト的名作として長く語り継がれている。1992年の公開当初から話題を呼び、各国の映画祭でも衝撃を与えた。今日ではモキュメンタリー映画の金字塔であると同時に「観ること」の倫理を問い続ける教材として多くの映像教育の現場でも扱われている。
その余韻は決して甘美なものではない。画面を見終わったあとに残るのは笑いながら目撃してしまった罪悪感と、日常に潜む暴力性の自覚である。我々はこの映画を観ることでベノワの狂気だけでなく、それを許容し続ける構造にも目を向けることになるのだ。
『ありふれた事件』は観客にとって決して「ありふれた映画」ではない。観る者の視線を試し、モラルを試し、メディアの役割を問い直させる。だが同時に軽妙なユーモアと映像の鋭さによって観ることそのものの快楽すら感じさせる危険な作品でもある。この映画の価値は、その危険性にこそある。我々が「どこまでなら見てもいい」と感じるか──その境界線を突きつけてくるのが、まさに『ありふれた事件』という“事件”なのである。
■脚本の構造──「加担」への転落を段階的に描く巧妙な設計
『ありふれた事件』の脚本は表面上は“連続殺人犯に密着するドキュメンタリー”という形を取りながら実際には倫理の連鎖的崩壊を段階的に描くドラマ構造を内包している。
物語の冒頭では撮影クルーはあくまで「記録者」としてベノワに密着している。観客の立場もまた、カメラ越しに事件を見守る“傍観者”である。しかし話が進むにつれて、クルーたちは次第にベノワの行動に巻き込まれていく。最初はただカメラを向けているだけだった彼らが、やがて犯行の現場に居合わせ、ついには自ら手を下すようになる。この変化は急激なものではなく小さな妥協の積み重ねとして描かれるため、別項でも記載した様に観客にも「感覚の麻痺」が生じてくる。
脚本の巧妙さはこの「麻痺」や「慣れ」が観客の視点とも並走するように設計されている点にある。我々は画面の中の人物だけでなく自分自身の感受性が侵食されていくことを痛感する。これは単なるストーリー進行ではなく、観客の倫理観までも物語に組み込むメタ構造でありフィクションと現実の境界線を撹乱する非常に先鋭的な脚本術である。
さらに注目すべきは作品が一貫して「説明しすぎない」構成を取っていることだ。ベノワの過去や内面に迫るような場面はなく、観客は断片的な言葉と行動から彼の人物像を補完するしかない。この曖昧さが、かえって彼を“象徴”として機能させ、殺人犯という一個人ではなく、「システムの副産物」としての人間像を浮かび上がらせるのである。
■登場人物の心理──道化の仮面をかぶった空虚な中心人物
主人公ベノワは陽気でおしゃべりな男として登場する。文学や都市開発、音楽、建築に至るまで、知識をひけらかすように語り、自らを「詩人」と呼ぶ。その明るさや知性は、周囲に一定の魅力を与え、観客にも一種の親しみを抱かせる。だが、この仮面の奥にあるのはきわめて空虚で、自己と他者の境界すら持たない精神構造である。
彼が語る言葉には一貫した倫理やイデオロギーがない。すべてはその場の気分で語られ意味があるようでない。むしろ彼は、自身の空虚さを埋めるために殺人を“日課”のように行っているように見える。自己承認や支配欲といった通常のサイコパス的動機を超え、殺人を「退屈の埋め合わせ」として遂行しているのだ。この無意味性の残酷さこそがベノワの真の恐ろしさである。
一方で撮影クルーの変化もまた脚本の肝である。最初は引き気味だった彼らもベノワの語りやキャラクターに魅了され、次第に共犯者へと変貌していく。この変化の背景には、ベノワに惹きつけられる心理的要因──知性への共鳴、非日常への憧れ、規範からの逸脱欲求がある。
カメラマンのひとりは殺人を目撃した夜、明らかに動揺し、ベノワの行為を正当化しようと必死に言葉を探している。これは観客自身の動揺と共鳴する場面であり、正義やモラルがいかに脆弱で、言語によっていともたやすく緩和されるかを突きつける。
クルーが最終的に殺人に加担することで映画の視点は完全に「ドキュメンタリー」から「フィクション」へと変貌する。これはメディアが現実に介入した瞬間に「現実」が変質するという、報道と権力の共犯性を象徴しているとも言える。
■倫理なき時代の寓話として
『ありふれた事件』が今日でもなお観る者に強烈な衝撃を与えるのは、この物語が単に“変人”の記録ではなく「我々はどう生きて、何を見て、何に慣れてしまうのか」という現代社会への寓話になっているからである。
この作品に登場する誰もが「普通の人」でありながら、次第に倫理の境界を越えてしまう。それはフィクションの中だけでなく現実社会でも起こり得ることであり、この作品はその可能性を突きつけてくる。
ベノワは単なる殺人鬼ではなく、欲望と知性と暴力の均衡が崩れた現代人の一つの典型であり、そして彼を許容し、娯楽として消費していく我々の姿もまた彼と地続きなのである。


