『殺しを呼ぶ卵』──鶏舎の中のエロス、機械、そして殺意の種子──「殺すために生まれる」ことの意味を問うジャッロ映画の脱構築
- Yu-ga

- 7月12日
- 読了時間: 6分
更新日:7月13日

🎥『殺しを呼ぶ卵(原題:La Morte Ha Fatto L'Uovo)』
監督:グイド・ケスティ
撮影監督:ダヴィッド・マンゴ
出演:ジャン=ルイ・トランティニャン、ジーナ・ロロブリジーダ、エヴァ・オーリン
公開年:1968年
ジャンル:ジャッロ/実験スリラー/資本主義寓話
上映時間:91分
『殺しを呼ぶ卵』は1960年代後半にイタリアで隆盛を誇ったジャッロ映画の中にありながら、その枠組みを巧みに逸脱する作品である。血と性的倒錯、謎解きのスリルを盛り込んだジャッロというジャンルは、元来大衆的な娯楽作品であった。しかしこの映画はそのジャンル記号を借りつつも、より深層的なテーマ──文明化された空間における人間性の瓦解──を描こうとする。
グイド・ケスティは物語構造を極限までミニマルに削ぎ落とし、視覚と音響の演出を実験的に操作することでジャンル映画の形式に哲学的な問いを刻みつける。その結果生まれたのはジャッロ映画に擬態したポストモダンの異形である。
■ 鶏舎という密室:資本主義の胎内
物語の舞台は近代的な養鶏場である。徹底して衛生的で、効率的に卵を生産するこの施設は、生命が工業製品のように扱われる場所である。清潔な白衣に身を包んだ労働者たちがコンベアで運ばれる卵を無表情に検品する姿には、まるでチャップリンの『モダン・タイムス』のような機械化社会の滑稽さと不気味さがある。
この鶏舎は単なる背景ではなく、主人公マルコの内面を映し出すメタファーとして機能する。卵とは生の象徴であると同時に未来を閉じ込めた密室でもある。そしてそれが大量に複製され、選別され、破棄される様子は資本主義がいかに“命”という概念を商品化していくかを映し出している。
■ 欲望と支配の三角形:人物関係の記号論
登場人物は三人。養鶏場の共同経営者であるマルコ、その妻で実質的なオーナーであるアンナ、そして彼女の若き従妹であるガブリエラ。三人は性的・経済的な権力を巡って複雑な三角関係を構築していく。
アンナは冷徹な経営者であり、資本の具現としてマルコを精神的に支配している。一方のガブリエラは一見無垢だが性的魅力と若さを武器にマルコの内部に眠る暴力性を目覚めさせる。彼女の存在は「純粋なもの」の仮面を被りながら、むしろ腐敗を促進する酵素のように働く。
この三者関係は、ただのメロドラマではなく、資本・性・幻想という現代的テーマが交錯するミクロな権力装置である。ここにジャッロ映画としての“犯人探し”の要素が重層化されていく。
■ 音が描く不安:モデルノによる聴覚の異化
音楽を担当したのはブルーノ・モデルノ。彼のスコアは従来のスリラー映画にありがちな緊張を煽る旋律ではなく、断片的なモチーフ、ノイズ、無音の間を意図的に挿入する実験的な構成となっている。
特筆すべきは養鶏場で響く機械音がしばしばスコアに混入し、観客に“聴こえる”というより“包囲される”感覚を与える点である。これにより音楽は物語の進行を補助する役割から脱し、観る者の感覚そのものに干渉してくる存在となる。
モデルノの音響設計はマルコの精神の歪みと観客の聴覚体験をシンクロさせ、物語世界への没入ではなく“拒絶”を通じて現実との距離感を増幅させる。その冷たさは、まさにこの映画の美学そのものである。
■ 反復される幻想:ミニマル・ナラティブの構造
『殺しを呼ぶ卵』の物語は驚くほど少ないプロット要素で構成されている。ジャッロ映画において期待されるような派手な殺人事件や複雑な謎解きは登場せず、観客はマルコの妄想と現実の境界を延々と彷徨うことになる。
殺人のイメージは複数回繰り返され毎回どこか少しずつ違う。それは“事実の再現”ではなく“心象の回転”である。誰が誰を殺したのかではなく「殺したと思ってしまう精神状態」が執拗に描かれる。
このような構造はナラティブを進行させるのではなく、時間を「留める」装置として機能する。その結果、観客は物語の結末を期待するのではなく「この感覚の出口があるのか」を問わされることになる。
■ ケスティの映像詩学:視覚の信頼性を疑う
グイド・ケスティは視覚に対する強い不信感を持った演出家である。彼のカメラはしばしば斜めに構えられ、被写体はガラスや鏡を通して歪んだ像として捉えられる。登場人物の顔も影に隠れたり、極端なクローズアップで表情を読み取れなくされたりする。
視ること=知ること=支配することという映画的快楽構造をケスティは意図的に崩している。これはまさに観客の視線を“犯す”映画である。欲望の対象として構築された女性たちもまた視覚的にはしばしば覆い隠され曖昧にされる。
映像の中で“完全に見える”ことはなく常に“何かを見逃している”という不安だけが残る。それがこの映画の核心であり恐怖の根源でもある。
■ 卵という寓意:閉ざされた未来
本作のタイトルに冠された“卵”はジャッロ映画における象徴の中でも最も多義的なモチーフである。卵は生命の萌芽であると同時に、殻という隔絶された世界でもある。
本作に登場する卵は割れない。孵化しない。生まれない。鶏舎で生産され続ける卵たちは生ではなく“可能性の剥製”である。それはマルコの抑圧された欲望、あるいは社会全体が内包する暴力の胚胎としての意味を持っている。
そしてこの卵が“殺しを呼ぶ”のだとすれば、それは人間社会そのものが孕む狂気、あるいは資本主義的欲望の果てに待つ破壊の予兆であると言える。
■ イタリア映画史における位置づけ:ジャッロの内破と前衛化
『殺しを呼ぶ卵』は興行的には失敗作と見なされることも多い。しかしジャンル映画と芸術映画の境界を越境するという点において、きわめて重要な実験的作品である。
この映画はのちのアルジェント作品のような色彩美や音楽演出に先行するヴィジュアル表現を提示している一方、アントニオーニのような実存的疎外感をも巧みに織り込んでいる。ジャッロ映画を“事件”から“存在”のレベルへと引き上げたという意味で非常に特異な位置を占めている。また、精神の内面と社会構造のメタファーとして舞台を機械的空間に設定する手法は、のちのデ・パルマやクローネンバーグにも影響を与えている可能性がある。
『殺しを呼ぶ卵』は単なるスリラーではない。それは視線に巣食う欲望を暴き、音に潜む不安を増幅させ、物語の“進行”という幻想を剥奪する。観る者はスクリーン上の物語だけでなく自身の内側にある“閉じ込められた狂気”に直面することになる。
割れることのない卵。生まれることのない命。それでも、その殻の内側では何かが蠢いている。この映画は私達に問う──その卵が割れる日、何が生まれるのかを。


