『ニーチェの馬』終末は風とともにやってくる──タル・ベーラの黙示録的遺言
- Yu-ga

- 5月18日
- 読了時間: 5分
更新日:5月23日

🎥 『ニーチェの馬』
監督:タル・ベーラ
撮影:フラニツキー・フェレンツ
出演:ボーク・エリカ 他
公開年:2011年ハンガリー(主要製作国)
ジャンル:黙示録的寓話 / 存在論的ドラマ
上映時間:146分(モノクロ)
「終わりとは、ある日突然起こるのではない。日常が、何かに“抗わなくなる”瞬間に始まるのだ。」
2011年、タル・ベーラは長編映画からの引退を宣言し、自らのキャリアに終止符を打つ。その最後の作品が『ニーチェの馬』(原題:A torinói ló)である。哲学と神話、沈黙と反復、風と灰。タル・ベーラが積み重ねてきた映像詩の粋が此処に結実する。だがそれは決して集大成などという一般的な甘やかなものではない。これは“すべての終わり”を描いた作品である。映画で語りうる表現の限界に迫った、映画であるが故に表現可能な絶望の物語である。
■タル・ベーラ監督、最後の問いかけ
「映画とは何か?」それは常に表現者に突きつけられる根源的な問いだが、ハンガリーの鬼才タル・ベーラはそれに対して真っ向から向き合い、そして答えを沈黙のうちに提示した。それが2011年の作品『ニーチェの馬(原題:A torinói ló / The Turin Horse)』である。
本作は長編映画としてはタル・ベーラの引退作とされる、まさに“終わり”の映画だ。しかし、それは単なるキャリアの終わりではない。映画という表現の限界を問う試みであり、人間存在の終着点を見つめる黙示録的映像詩である。
■起源としての逸話 ──「ニーチェが抱きしめた馬」
本作の着想は哲学者フリードリヒ・ニーチェの有名な逸話にある。1889年1月3日、トリノの街角で、御者に鞭打たれる馬を見たニーチェは、その馬に駆け寄り泣きながら抱きついたという。彼はその直後に精神を崩壊させ、以後の人生を沈黙の中で過ごすことになる。
だが、タル・ベーラと共作者クラースナホルカイ・ラースロー(彼はこの逸話の発掘者でもある)が注目したのは、“ニーチェではなく馬の方”だった。つまり「その馬とその持ち主に、その後何が起きたのか?」という哲学的かつ寓話的な問いを起点に物語は編まれていく。


■ 風がすべてを奪う ── “日常”が崩壊していく六日間
物語は、極限まで削ぎ落とされた舞台装置の中で展開される。登場人物はほぼ2人。
無口な農夫(デルジ・ヤーノシュ)
その娘(ボーク・エリカ)
一頭の老いた馬
彼らは荒野の一軒家で暮らし、風が絶え間なく吹きつける中、日々同じ生活を繰り返している。朝が来て服を着替え、じゃがいもを茹でて食べそして水を汲みに井戸へ行く。馬車を引かせ夜になると眠る。だがその普遍的な毎日の繰り返しが少しずつ狂い始める。
最初に馬が動かなくなり、次に井戸の水が枯れる。風は止まず外の世界は遮断される。やがて火が消え、言葉も消え、食事すら拒絶されていく。世界は劇的な終末を迎えるのではなく、“日常が抗わずに崩れていく”という形で滅びていく。その様子は、まるで此の地から神が静かに撤退していく瞬間をカメラが捉えているかのようだ。
■“動かない時間”を撮る ── フラニツキー・フェレンツの魔術
『ニーチェの馬』の映像体験はある種の瞑想である。モノクロの世界、重く垂れ込める雲、荒野に吹き荒れる風、うねる衣類と激しくたなびく髪。撮影監督フラニツキー・フェレンツによる長回しと空間の抑制はタル・ベーラ映画の本質を支えている。
全編146分でカット数は30以下。カメラは静かに、しかし執拗に人物と時間を見つめ続ける。ここでいう“長回し”は技術ではなく哲学であり、観る者を強制的に「時間そのものの流れ」へと引きずり込む装置である。
暴風の音が場面をまたいで鳴り響く。音楽もまた単調な旋律の反復で、映画全体に“終末の律動”を刻み込む。沈黙と反復、それだけが語り手である。
■ 音楽=運命の反復
本作の音楽を手がけたのはタル・ベーラ映画に欠かせない作曲家ヴィーグ・ミハーイ。映画の冒頭 ── 馬が風の中を歩むシークエンスで流れる旋律は以後何度も繰り返される。それはもはや音楽ではなく終末の鐘のように我々の内奥を打つ。
旋律は変わらない。しかし状況は変化する。同じ音が流れるたびに少しずつ世界が削れていく。この繰り返しはまるで世界が“エントロピーの増大”によって不可逆的に崩壊していく様を表現しているようだ。
■ セリフの無さは思考の深さへ
本作においては台詞がほとんどない。ただ一度だけ、隣人(ミハーイ・コルモシュ)が訪ねてくるシーンで長い独白がなされる。それは、人間の堕落と信仰の空洞を嘆き、神なき時代を批判するようなクラースナホルカイ・ラースローらしい言葉の洪水である。
しかし、それ以外の大半は“無言”だ。言葉が交わされないことがかえって観る者の内面に深い問いを突きつける。なぜ私たちは語ることをやめるのか?なぜ人は立ち上がることをやめてしまうのか?この映画は沈黙のうちに、それらすべてを問うてくる。
■ 寓話か、現実か ── 『ニーチェの馬』が照らす我々の現在
『ニーチェの馬』が描いているのは、ある農夫の終末的な六日間かもしれない。だがそれは同時に“私たち全員”の物語でもある。社会が、文明が、あるいは人間の意志そのものが何かに“抗う”ことをやめた時、世界はどうなるのか。政治的にも環境的にも“風が止まぬ”現代社会の中で、この映画はますますリアルな問いとして突き刺さる。
最後に。
「なぜこのような映画を作ったのか?」と問われた時、タル・ベーラはこう語っている。
「これは世界がどのようにして終わっていくかを描いた映画だ。劇的な爆発ではなく、静かに、しかし確実に、すべてが壊れていくのだ。」


