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『ヘンリー』が描く無慈悲なる日常

  • 執筆者の写真: Yu-ga
    Yu-ga
  • 6月7日
  • 読了時間: 6分
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🎥『ヘンリー 〜ある連続殺人鬼の記録〜 (原題:Henry: Portrait of a Serial Killer)』


監督: ジョン・マクノートン

撮影監督: チャーリー・リーブリヒター

出演: マイケル・ルーカー、トレイシー・アーノルド、トム・トウルズ

公開年: 1986年(製作)、1990年(アメリカでの一般公開)

ジャンル: 犯罪スリラー/サイコホラー

上映時間: 82分






 ジョン・マクノートン監督による『ヘンリー 〜ある連続殺人鬼の記録〜(Henry: Portrait of a Serial Killer)』は、映画史において特異な位置を占める作品である。

 1986年に完成したこの低予算映画は、アメリカ社会の倫理的な閾値を突き抜ける表現ゆえ、長く公開が拒まれ、実際に世に出たのは1990年であった。

 当時のアメリカはレイガン政権下で治安強化と保守化が進行し、暴力や性表現に対して厳しい倫理規制が施行されていた。だが本作が問題とされたのは、単に“残酷だから”ではない。むしろ殺人をあまりにも無感動に、日常的に、そして説明もなく描いてしまったからである。そこには“なぜ”も“どうして”も“許せない”もない。

 映画という虚構空間が現実と地続きになってしまうこと。その恐怖を本作は徹底して突きつけてくる。観客が“感情移入”という名の避難所を見つけられないまま、ただ殺人という行為に向き合わされる。その冷たさ、空虚さこそが本作最大の恐怖であり、そして不気味な美しさでもある。


■殺人鬼ヘンリー ── 理解も共感も拒む主人公

 マイケル・ルーカーが演じるヘンリーは、スクリーンに現れた瞬間から「人間」であることを拒絶しているかのような佇まいを見せる。穏やかな声、感情の乏しい目つき、落ち着いた話し方。暴力的な欲求を爆発させるような激情型の殺人鬼とは対極にある。彼は感情ではなく、感触に従って人を殺す。まるでそこにいたから殺しただけとでも言いたげな自然さで、命を奪う。

 観客がヘンリーに感情移入することは極めて困難である。彼は背景を語らない。トラウマも言い訳もしない。殺しの手際の良さだけが、彼がこの行為に熟達していることを示す。こうした“説明なき存在”としてのキャラクター造形は観客の理解や共感という回路を意図的に遮断し「見る者の不安」を構造的に作り出している。

 また、ルーカーの演技は素晴らしい。演技と呼ぶことすら躊躇うほどの“生”に近い存在感を放つ。視線の動かし方、沈黙の置き方、無表情に語る言葉の間。彼は演じているのではなく存在している。観客がそれを感じたとき、ヘンリーの“現実性”は急速にこちら側へと侵食してくるのだ。


■映像と音──淡白であることの凄み

 本作の映像設計は、いわゆるスリラー的な緊張感や美学とは一線を画している。チャーリー・リーブリヒターによる撮影は明暗の演出や凝った構図を避け、むしろ“家の明かり” “路上の街灯” “車内の蛍光灯”といった日常の光に全てを委ねる。だからこそ、その殺人は「非日常」としてではなく「日常」の延長として現れる。

 極めつけは殺人シーンを“見せない”演出である。死体がすでに横たわっているカット。部屋の隅に血痕が広がる静止画。そして家庭用ビデオカメラを通じた残虐行為の間接描写。ここには“見せない”ことによって想像力の暴力性を引き出す冷静かつ計算された映像哲学が貫かれている。

 音響においても無音や環境音が多用され、観客に心理的余白を与えない。不協和音のような電子音の旋律が断続的に流れ、それはまるで「冷たい存在感」としてのヘンリーの心象音楽のようでもある。情緒性を否定するサウンドトラックは恐怖というより“気配”のように忍び寄る不安を強調する。


■暴力の“目的なき連鎖”としての描写

 物語のなかで描かれる暴力には一貫して“意味”が欠如している。殺された者の多くは物語的役割を持たない。彼らは背景であり、ただ存在していたというだけで死を迎える。犯人と被害者の関係性が希薄であるほど暴力の無意味さは際立つ。

 通常の映画では暴力は物語の装置であり、転機や結末へ向かう“駆動力”として扱われる。しかし『ヘンリー』では暴力そのものが“自己目的化”されている。つまり暴力の発生に物語的必然がない。これにより観客は“次は誰が殺されるのか”というサスペンスではなく“いつ殺されてもおかしくない”という存在論的な不安に陥る。

 最も衝撃的なのはヘンリーとオーティスが共に犯行を重ねていくくだりである。彼らは殺しを“学び” “共有し” “記録する”。殺人という行為が言葉や文化のように伝達可能な“技術”であるかのように描かれるのだ。この描写には暴力の拡散性、模倣性、そして無目的性という現代社会の闇が凝縮されている。


■無関心と孤独の地平に──ベッキーとオーティスの存在

 ヘンリーの隣人であるオーティスとその妹ベッキーの存在は映画の暴力性に“人間の生活”を対比させるように配置されている。オーティスは知的に幼く、社会性を欠いた人物であり、ヘンリーの影響を受けて殺人へと染まっていく。一方でベッキーは過去の家庭内暴力から逃れ、ヘンリーに一種の癒しや理解を求めようとする。

 だが、その関係性もまた脆く、宙吊りのまま終わる。彼らの関係に“救済”や“愛”のような感情的クライマックスは用意されていない。むしろどこまで行っても交わらない“孤立した存在”同士の擬似的な繋がりにすぎず、それが逆に本作の空虚さを深める要因となっている。

 ベッキーが見せるかすかな人間性や愛情の芽生えが最後に完全に切り捨てられることで、観客はこの作品が持つ“絶望の倫理”を否応なく突きつけられる。『ヘンリー』の世界では善悪は機能せず、感情は通じ合わず他者とは本質的に分かり合えないのだ。


■倫理の不在と観客の位置──“見てしまった”という罪

 本作において最も重要なのは、観客が「殺人を見ている」という立場に据えられている点である。『ヘンリー』は観客を道徳的に安全な場所に置かない。目撃者としての共犯性が、終始つきまとう。

 この仕掛けの核心は映画の“視線の倫理”にある。カメラは殺人を追いかけるがそれを止めない。何も咎めず感情的にも揺れない。観客はその視線に導かれ見たくないものを見せられ、気がつけば“見てしまっていた”という罪悪感に支配される。

 ラストの静けさと突き放し方は、その倫理的無情さを象徴する。何も終わらず何も始まらず、ただ一つの“荷物”が置かれヘンリーは再びどこかへ去っていく。物語が閉じられないまま観客だけが取り残される。その余白にこそ、この映画の真の恐怖が宿るのだ。


■終わりに──“ポートレイト”が映すもの

 『ヘンリー』は映画の“虚構”という安全装置を外した作品である。感情移入もカタルシスも用意されておらず倫理的判断を委ねられることもない。ただ殺人という行為と、それを“見る”という行為だけが冷たく提示される。

 その冷徹なまなざしはむしろ哲学的でさえある。人間とは何か、社会とは何か、感情とは何か──その問いに対して映画は一切の答えを返さず沈黙する。だがその沈黙こそが、この作品最大の声であり、現代人が見落としている“空虚さ”への警鐘である。

 ヘンリーという“記録”は犯罪者のポートレイトである以上に“無関心”という現代の病のポートレイトなのだ。そして我々がそれを「見てしまった」という事実こそが、この映画最大の問いとして、胸の奥に突き刺さる。

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