top of page

『マッドゴッド』── 終末世界を這いずる幻視の黙示録

  • 執筆者の写真: Yu-ga
    Yu-ga
  • 6月16日
  • 読了時間: 8分

ree

🎥『マッドゴッド(原題:Mad God)』

監督: フィル・ティペット

撮影監督: デヴィッド・スカートン

出演: アレックス・コックス、ニク・ギリス、サッチャー・デミコ

公開年: 2021年

ジャンル: ストップモーション/ダークファンタジー/実験映画

上映時間: 約83分




 『マッドゴッド』という作品に接したとき、我々は一つの物語を読解するのではなく一つの精神構造と向き合うことになる。終末的な映像に身を委ねれば委ねるほど、それは地獄というよりむしろ「精神の深淵」とでも呼ぶべきものに近づいていく。ここには善悪も美醜も構造的意味も存在しない。ただ「ある」ということそのものが悪夢のように堆積し現れる。これはティペットという一人の映像作家の心の堆積層を掘削する行為であり、その結果として誕生した異形のフィルム遺物である。


■創造主の狂気──フィル・ティペットという異能

 フィル・ティペットという名前を聞いて、モーションキャプチャーの発展、ILM(インダストリアル・ライト&マジック)での業績『スター・ウォーズ エピソードV』のAT-ATの動き、あるいは『ロボコップ』のED-209を思い浮かべる人も多いだろう。だが、そうした商業映画の成功の裏には彼の中に常に「形にならないヴィジョン」がうごめいていた。そのヴィジョンが具現化したのが『マッドゴッド』である。

 この作品は1987年ごろから断続的に構想され、一度は頓挫し2010年代に再起動されるまでティペット自身の内面で静かに発酵していた。とりわけ『ジュラシック・パーク』でCGIによる恐竜表現が主流になり、自身の技術(ストップモーション)が不要になったと感じたときティペットは精神的に崩壊しかけたという。その時期、彼は精神科医にかかり、セラピーの一環として再び『マッドゴッド』に取り組み始めた。ゆえにこの作品は創作という営為そのものが癒しであり発狂でもあることを証明する異形の記録でもある。


■物語の断片──命令、迷路、反復の物語構造

 物語の表層には一人の無言の兵士が提示される。彼は地図を持ち、命令に従い、地獄めいた地下世界へと降りていく。この導入は神話的かつ宗教的である。兵士が降りるその地下の世界はダンテの『神曲』を想起させるが、そこにあるのは詩的秩序ではなく内臓的カオスである。兵士は旅の中で拷問、殺戮、意味のない反復労働、機械による出産、破壊の再構築といった儀式的シークエンスを経る。しかし彼は決して物語を解決に導かない。

 重要なのは「任務」が意味を持たないことである。兵士はやがて失敗し、死ぬ。彼の遺体や装置は回収され再利用され、また次の兵士が送り込まれる。この反復性は神による再創造の寓話にも、人類の文明的愚行の象徴にも読み取れる。明確な言語による説明がないからこそ観客は意味の余白に無限の解釈を投影せざるを得ない。


■ビジュアルの暴力──腐敗、機械、肉体の融合

ree

 『マッドゴッド』のビジュアルは美術・撮影・造形すべてにおいて過剰であり執拗である。ここで描かれるのは廃墟と機械と臓物が合体したような世界である。人間に似た存在は使い捨てにされ、機械と肉体の境界は曖昧になり、あらゆるものが変形しながら壊れていく。

 ティペットがストップモーションで築き上げたこの地獄は、まるでクローネンバーグの身体ホラー、ヒエロニムス・ボスの絵画、あるいはフランシス・ベーコンの肉塊的な人体表現を思わせる。とりわけ印象的なのは「音」のない場面での「物質感」だ。粘液、血液、機械油、灰、粉塵といった質感が画面の隅々にまで浸透している。観客は視覚を通じて嗅覚・触覚までも喚起されるような錯覚に襲われる。これは映像が「体感」へと至った稀有な例である。


■言語の不在──沈黙が語るもの

 本作に台詞はほとんどない。しかし、そこにこそ本作の強度が宿っている。観客は「聞く」のではなく「見る」ことを強要される。見るという行為そのものが、ここではサディスティックに機能する。映像は言葉による説明を拒否しながら、それでも確かな叙情と神話性を内包している。沈黙は世界の終焉を物語るにもっとも相応しい言語なのである。


■終末の寓話──崩壊の先にあるもの

 『マッドゴッド』は終末思想を根底に据えた作品である。だがその終末は宗教的な罰や報いの物語ではない。むしろ神の意志も人間の倫理も失われた「純粋な崩壊」の描写に近い。科学技術と肉体、戦争と消費、誕生と死がすべて連動し、意味のない機械的なリズムとして繰り返される。そこに描かれる「命」は、もはや祝福ではなく苦痛の始まりである。

 作品終盤、再び“創造”が描かれるが、それは希望ではない。宇宙的な規模での生命の再構成が示唆されるが、それが祝福か呪詛かは明らかにされない。これは終末の先にあるもう一つの始まり──そしてそれもまた地獄である可能性──を描いている。


■地獄に耐える観客のための映画

 『マッドゴッド』は決して万人のための映画ではない。構成は曖昧で視覚は暴力的で結末は解放ではない。しかし、それでもこの作品は映画史において特異な光を放っている。これは商業性と正反対の場所で生まれた狂気と創作への執念の結晶であり、映像芸術の極北である。地獄を描くことでしか触れられない「世界の本質」にフィル・ティペットは到達してしまった。見る者にもまた、それに耐える覚悟が問われている。



各シーンの象徴性・神話的意味の解釈


■冒頭──神の指、神の怒り

ree

 映画は旧約聖書の一節(レビ記26章)の引用で始まる。「汝、我に従わざれば、わが怒りは七倍となる」──これはまさに“神罰の予告”である。この時点で映画全体が「選ばれなかった人類」「堕ちた者たち」の物語であることが示唆される。レビ記とは律法の書であり、人間の不浄と罰を扱う章が多い。それゆえ本作は神話的にいえば『創世記』の裏返し、あるいは失われた『黙示録』の続編とすら言えるだろう。


■兵士の降下──オルフェウス、あるいは堕天使

 主人公とも言えるガスマスク姿の兵士が球体エレベーターのようなポッドに乗って地下世界に降りていく。この「降下」はギリシア神話のオルフェウスの冥界下りを想起させると同時に旧約の堕天使(例えばアザゼルやルシファー)のメタファーでもある。

 エレベーターが通過する階層ごとに世界の様相は変化し、より混沌へと近づいていく。この「多層構造」はダンテの『神曲』における地獄の環(circle)とも照応し、それぞれの層が人間の罪、または破綻した制度の寓意となっている。


■最初の地獄──労働者の死と機械の暴走

 兵士が降り立つ世界は巨大な工業施設のような無機質な空間で、奴隷のような生物が機械仕掛けの生産ラインで過酷な労働を強いられている。彼らは圧死し、燃やされ、糞尿のような物質に還元される。

 この場面にはカフカ的官僚主義の地獄チャプリン『モダン・タイムス』の悪夢的再演が混在している。労働とは何のためか? 命はなぜ消費されるのか?──それらの問いが言葉なく画面から突きつけられる。また、ここでは「肉体と機械の融合」が繰り返される。これはテクノロジーが人間性を侵食する現代の神話でもある。


■透明の赤ん坊──生と死の儀式、転生の装置

兵士が最後に携えていた黒いトランクが開かれると、その中には胎児のような存在が宿っている。その後この赤ん坊(あるいは魂)は、医者や異形の神官たちによって不気味な装置に接続され機械的な解体と錬金術のような操作を受ける。ここでの装置や儀式は、まるで現代科学と神秘主義の合体であり生命の再定義と転生を思わせる。

 胎児のような存在が光の球体になって宇宙的ビッグバンのようなイメージに結びつくシーンではまさに「世界の再創造(re-creation)」が行われている。これはグノーシス神話における「失われた魂の再錬成」、あるいはヒンドゥー神話におけるシヴァ神の破壊と再生のようにも読み解ける。


■権力者たち──解読不能な神々

 映画の中盤には巨大な存在(司令官や支配者のような異形の者たち)が登場するが、彼らは沈黙しており、その行動原理も意味も観客には理解されない。この沈黙の神々的存在は旧約の神ヤハウェ、あるいはギリシア神話における運命の三女神(モイライ)のように、ただ「決定」を下す存在として描かれている。人間の苦しみも死も彼らには感知されず目的も語られない。

 ここには人類が不可解な神意に翻弄されるというポスト神話的宿命論が現れている。つまり、この映画の神々は、もはや「意味」を与えない。彼らの存在自体が意味の空洞化を象徴している。


■ナースと赤ん坊──母性の崩壊と代理出産の悪夢

 異形のナースが透明な赤ん坊のような存在を抱える場面では、母性のテーマが逆説的に強調される。この看護婦たちは顔を隠し、機械的な動作で赤子を“処理”する。ここでは母性=庇護の象徴ではなく体制化された繁殖の機能としての母性が強調されている。

 この場面はマーガレット・アトウッド『侍女の物語』的な支配と再生産のディストピア的視座と結びつき、女性性や出産の神話的意味を徹底して空洞化する。かつて神聖とされていた「生の起点」は、ここでは「資源」の一つへと堕している。


■終盤の宇宙──創造神話のブラックホール化

 物語の終盤では、かつての創造神話がフラクタル的に再構築されるようなイメージが続く。赤子のエネルギーは粒子となって爆発し、星々や惑星、都市が生まれる。だがその都市もまた崩壊し、爆発し、塵となる。

 このイメージはヒンドゥー宇宙論の創造-維持-破壊の永劫回帰を思わせると同時に、ニーチェ的永劫回帰の地獄化でもある。何度も何度も同じ苦しみが繰り返される、という存在の無意味性の強調。つまり『マッドゴッド』の最終イメージは宇宙の始まりと終わりが連続しており、しかもそれが意味も希望も持たない虚無のコスモロジーとして提示される。


■地獄とは、意味を探す者の罰である

 『マッドゴッド』における地獄とは苦痛の場ではない。意味の断絶そのものこそが地獄なのである。象徴の断片は常に観客を惑わせるが、それらは一貫した真理へと収束しない。そこにこそ本作の核心がある。「意味がある」と思い込むこと自体が地獄への扉を開いてしまう。その観点から言えば『マッドゴッド』は現代における最もラディカルな神話破壊の映画であり、同時に神話を必要とする人間の弱さを暴き出す寓話でもある。

bottom of page