『メランコリア』── 終末は美と破壊のあいだで静かに訪れる
- Yu-ga

- 5月23日
- 読了時間: 5分
更新日:5月23日

🎥 『メランコリア(原題:Melancholia)』
監督: ラース・フォン・トリアー
撮影監督: マヌエル・アルベルト・クラロ
出演: キルスティン・ダンスト、シャルロット・ゲンズブール、キーファー・サザーランド他
公開年: 2011年(カンヌ国際映画祭にてプレミア上映)
ジャンル: ドラマ/SF/心理劇
上映時間: 約136分
ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』前奏曲が鳴り響く中、時間が凍ったかのような美術画のようなイメージが連続する。青白く輝く惑星メランコリア、鳥の群れの落下、ドレスを着た女性が泥沼に沈む──それらは死と美、精神の崩壊と救済の暗示である。ここに描かれるのは宇宙の終焉という壮大なテーマではなく、内的宇宙の崩壊。惑星衝突のストーリーは表層のドラマにすぎない。ラース・フォン・トリアーは観客をSF映画の皮を被った心理の深淵へと連れていく。
■ ラース・フォン・トリアーという“病んだ神”
この作品を理解するうえで欠かせないのが監督自身の存在である。
ラース・フォン・トリアーは、映画の冒頭でタイトルを堂々と掲げるように、鬱病という自らの苦しみを作品に投影している。ジャスティンはまさしく彼の分身だ。彼はかつて「私は幸福な映画が撮れない」と語ったが、『メランコリア』はその極地にある。
製作当時のインタビューでは「鬱病の人間は、むしろパニック状況で落ち着く」と語っていた。だからこそ終末の訪れと共に安定するジャスティンは、まさにそのメタファーであり、映画自体がそのセラピーでもある。
■ 二部構成の詩学:『ジャスティン』と『クレア』
本作は二部構成で語られる。一部「ジャスティン」では社会規範に馴染めない花嫁の孤立が描かれ、二部「クレア」では理性と秩序の象徴だった姉が破滅への恐怖に精神を崩壊させていく。
ジャスティン編:豪華な結婚式、次々と壊れていく関係性。形式的な幸福の空虚さを炙り出す。キルスティン・ダンストは、目の奥に虚無を宿し、微笑みながら心が壊れていく様を演じきった。
クレア編:惑星メランコリアが地球に接近。不安をかき消そうとするクレアだが、次第に理性は限界を迎える。頼れるはずの夫(キーファー・サザーランド)は最初に逃げ、残された彼女と息子が頼ったのは壊れていたはずの妹ジャスティンだった。
この逆転構造が観客に深い問いを突きつける。誰が正気なのか? 真に世界の終わりに備えられるのは誰か?
■ 終末ビジュアルの魔術:手持ちと構図の二重奏
撮影監督マヌエル・アルベルト・クラロの仕事は、本作の詩的な魅力の中核をなしている。クラロはトリアーと共にドグマ95的な手持ちの揺れと、意図的に練り上げられた構図の両立という野心的スタイルに挑んだ。
プロローグのスローモーションは完全に様式美を追求した絵画的ショット。まるでミレーやオフィーリアの絵画を見ているようだ。
対して本編では、手持ちカメラが被写体を“追う”というより“彷徨う”。この不安定な視線が人物の精神状態を体感させる演出となっている。
惑星メランコリアの接近が描かれる夜空、湖面に反射する青い光、ラストの土の中の小さな“魔法の洞窟”──その全てが現実と夢、死と美の境界を溶かしていく。
■ 音楽と音響:ワーグナーと無音の間
『トリスタンとイゾルデ』が象徴するものは“愛と死の融合”だ。ワーグナーの旋律は、まるで催眠のように観客を引き込み、終末の甘美さすら感じさせる。
だが本作が特筆すべきは “音響の「抜き」” の使い方である。多くの場面でBGMが排除され、風の音、自然のざわめき、人の息づかいが残される。音を“聴かせる”のではなく“沈黙を感じさせる”ことで観客の情動を揺さぶるのだ。
■ 象徴と暗喩:惑星メランコリアとは何か?
メランコリアとはただの天体ではない。それは鬱という名の惑星であり、現実を飲み込む比喩だ。
結婚式は社会の祝祭=「正常」の象徴。だがジャスティンはそれに耐えきれず破綻する。
クレアは秩序、家庭、母性という「生」の象徴。だが彼女はメランコリアの接近と共に崩れていく。
ジャスティンは「死」に近い存在。最終的に死を受け入れることができる唯一の人物となる。
ここには「死と鬱こそが真の平安をもたらす」という危険な、だが鋭い視点がある。観客はそこで倫理的な葛藤を突きつけられる。
■ 終幕:崩壊の中の儀式

ラストシーン、ジャスティンはクレアの子どもと共に「魔法の洞窟」を作る。石を積み棒を立てるその姿は、まるで原始的な宗教儀式のようだ。そして彼らはその中で手を取り合い静かに惑星を迎える。
音もなく光がすべてを包み、白一色になった瞬間──観客は息を止める。
これは恐怖でも絶望でもなく沈黙と赦しの瞬間なのだ。
■ SFではない、これは“終末の内面化”である
『メランコリア』は表面的には惑星衝突を描いたSF映画の体を取っている。
だが実際にはこれは鬱病という現代病の詩的記録であり、精神的終末の叙事詩である。美しく絶望的で、圧倒的に感情的。それはきっと映画でしか描けない「内的な終わり方」なのだ。
メランコリア=melancholia=憂鬱。この映画のタイトルが意味するものを僕はスクリーン越しに体感した。終末の恐怖を通じて、人はなぜ生きなぜ死を恐れるのか。その哲学的問いに対するトリアー流の答えがここにある。


