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『下女(하녀)』── 欲望の家屋に棲む“怪物”と韓国モダニズムの断層

  • 執筆者の写真: Yu-ga
    Yu-ga
  • 6月15日
  • 読了時間: 5分

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🎥『下女(原題:하녀)』

監督:キム・ギヨン

撮影監督:キム・ドクジン

出演:イ・ウンシム、キム・ジンギュ、チュ・ジョンニョ、オム・エンラン

公開年:1960年

ジャンル:社会派ドラマ、フィルム・ノワール

上映時間:110分




 『下女』を初めて観た者は、その異様さに圧倒される。不気味に蠢く視線、粘着質なカメラワーク、耳にこびりつく足音と笑い声、そして階段という垂直空間の不吉な存在感──これらはどれも一見“日常の断片”であるが、キム・ギヨンの手にかかると不安と錯乱の迷宮へと変貌する。

 この作品は韓国映画における“家庭”の描写を決定的に変えてしまった。外からの侵入者である“下女”は家庭という幻想にひびを入れるために送り込まれた黒い寓意であると同時に、当時の韓国社会が抱えていた“都市化”と“階級摩擦”の結晶でもあった。

 だがキム・ギヨンの才能はそれだけでは終わらない。彼は下女の暴力性をスリラー的演出で誇張する一方で被害者として描かれる中産階級の側にも同様の欲望と腐敗を見出し、倫理と理性の皮膜が剥がれ落ちる様を描いている。その結果、この作品は“誰が悪なのか”という単純な構図を拒み、観客自身のモラルをも試す不穏な鏡として成立しているのである。


■時代背景──急速な都市化と階級の逆襲

 1960年代、韓国は戦後の復興と急激な都市化を経験し、社会の構造そのものが大きく変化していた。かつての農村中心の生活は崩れ、ソウルには地方からの労働者が大量に流入し“新中産階級”とも呼ぶべき層が生まれ始めていた。この新しい都市中産層は経済的に安定し、教育を重視し、核家族的価値観を持ち始めていた。

 『下女』の物語の中心にある家族は、まさにこの新中産層の理想像である。夫は音楽教師、妻は内職で家庭を支え、子どもたちを育てる堅実な家庭──だがその“平穏”の裏には抑圧された欲望、労働の搾取、社会的階層差が隠されていた。そこへ下女が登場する。

 彼女は“外部から来た脅威”として描かれるが、実は彼女の存在そのものが、この社会構造の歪みから必然的に生まれた“内在する他者”なのである。つまり下女は家族の“外”ではなく“内部”に巣食っていた亡霊であり、理想的家庭像という虚構を破壊するために現れるのである。


■演出分析──垂直構造と“空間の支配”

 キム・ギヨンの演出で特筆すべきは建築的な空間の利用法である。特に“階段”の存在が重要だ。この作品では階段はただの移動手段ではなく、上下関係、権力、性的緊張、心理的優位を象徴する“戦場”として描かれている。

作曲家とその家族は常に階段の上に位置し、下女は階段の下から見上げる。だが物語が進むにつれ、その力関係は逆転し、下女が階段の上から家族を見下ろす構図が繰り返される。この視線の反転こそが家庭における支配と服従、そして階級の入れ替わりを象徴しているのだ。

 またキム・ギヨンはカメラを頻繁に“主観視点”に切り替え、観客を加害者にも被害者にも仕立て上げる。特に下女が夫の部屋に忍び寄るシーンでは、観客は彼女の眼差しを通して家族を見つめることになる。この演出によって観客は彼女を単なる“恐ろしい存在”として見ることができなくなる。むしろ彼女の衝動や屈辱に共感し、やがて“どちらが狂っているのか”という問いに直面するのだ。


■性と暴力──女性という“他者”の解放と呪縛

 下女は性的に描かれている。露骨ではないが、その身振り、呼吸、視線には性的な挑発が刻まれている。しかし、それは単なる“誘惑”としてではなく“抑圧された性”の反乱として登場する。キム・ギヨンはここで女性の性が道徳的秩序によって封じ込められていることを明示し、そこから逸脱する者が社会からどのように排除され、また恐れられるかを描いている。

 下女は家族の構成員ではない。彼女は“未婚”であり妊娠するが結婚しない。階級的にも性的にも、彼女はこの家族の秩序から逸脱した“異物”である。そしてその異物が自らの身体を使って家族秩序を攪乱する様は、倫理とタブーの境界線を曖昧にし、観客に不快な共犯意識を抱かせる。

 暴力的な描写もまた単なるショック演出ではなく、欲望の抑圧が破裂する瞬間として機能している。階段からの転落、毒入りの飲み物、強迫的なピアノ練習──それらは全て“家庭の秩序”の崩壊がいかにして起こるかを見せるための儀式である。


■後世への影響──韓国映画の地下水脈としての『下女』

 『下女』は韓国映画の中で孤立した異端作ではない。むしろ後の韓国映画が発展させていく“社会的寓話”や“家庭の崩壊”というモチーフの源流に位置する。

例えばポン・ジュノの『パラサイト 半地下の家族』において地下と地上の空間的対比、階級闘争、家庭という幻想の解体という要素は明らかに『下女』の直系である。またイム・サンスによる2010年のリメイク版『下女』も、この原作がいかに現代にも通じるテーマを持っているかを示している。

 そしてなによりキム・ギヨンという作家の“映画における倫理の破壊”という姿勢は韓国映画に限らず、アジア映画全体に大きな示唆を与えた。観客にモラルを強いるのではなく、むしろ観客自身のモラルを破壊する──それこそが映画という表現の最も過激で根源的な可能性なのだ。


■結語──家庭の奥にいる“下女”は、まだそこにいる

 『下女』は単なる古典ではない。それは今なお我々の家の奥に潜んでいる“恐怖”であり“隠された欲望”である。それが60年以上経った今もなお観る者の倫理感をかき乱し、不安にさせるのは我々の社会が依然として“家庭”という幻想の檻の中に囚われているからである。

 キム・ギヨンはその檻を鋭い爪で引き裂いてみせた。その傷口からは血と欲望と階級の影が滴り落ちる。そして観客は、その痕跡を前にして何も言えなくなる。──『下女』とは、そうした沈黙の映画である。

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