『去年マリエンバートで』── 永遠にループする記憶の迷宮
- Yu-ga

- 5月24日
- 読了時間: 5分
更新日:5月26日

🎥『去年マリエンバートで(原題:L'Année dernière à Marienbad)』
監督: アラン・レネ
脚本: アラン・ロブ=グリエ
撮影監督: サッシャ・ヴィエルニ
出演: デルフィーヌ・セイリグ(A)、
ジョルジョ・アルベルタッツィ(X)、
ドルフ・セリグ(M)
制作国: フランス/イタリア
公開年: 1961年
ジャンル: 実験映画/心理ドラマ/ロマンス/ミステリー
上映時間: 94分
受賞歴: ヴェネツィア国際映画祭 金獅子賞(1961)
■記憶と幻想の迷宮に迷い込む — 導入としての衝撃
『去年マリエンバートで』は初見の観客に衝撃と困惑を与える作品だ。開始から数分で観る者はある種の“現実感”を喪失する。豪奢なバロック様式のホテルの内部、彫刻のように静止した人々、反響するナレーション、そして意味のあるようで意味のない繰り返しのセリフ。物語はあるのか?時間は流れているのか?この作品は映画でありながら「映画であるとは何か」を根底から問い直してくる。
■“ストーリー”を拒否したストーリーテリング
アラン・ロブ=グリエの脚本は、ヌーヴォー・ロマンの実験精神をそのまま持ち込んでいる。登場人物たちには名前すら与えられず設定も流動的。男(X)は女(A)に 「去年マリエンバートで出会った」と繰り返し語るが女はそれを否定する。観客は徐々に気づく。この映画において記憶は証拠ではなく“物語の可能性”に過ぎないということを。
出来事の順序はあいまいで会話は何度も繰り返され異なるバリエーションを持つ。登場人物の行動や反応も一定ではなく、それぞれのシーンがまるで違う物語に属しているかのように感じられる。つまり『去年マリエンバートで』は「同じ出来事を異なる視点から繰り返し眺め、再構築する」ことでストーリー自体を疑似科学的に解剖しているのだ。
■完璧な視覚設計 — サッシャ・ヴィエルニの詩的映像美学

この映画を語る上で映像の力を無視することはできない。サッシャ・ヴィエルニの撮影はただ美しいだけでなく心理的・構造的意味を持つ。例えば、長く続く回廊や対称的な構図は「逃れられない空間」「永遠に繰り返される記憶の罠」を視覚的に示している。
また、深いコントラストと陰影、遠近感の強調されたショットは夢の中での視覚体験を再現するようだ。人物の動きは遅く、時に静止画のように配置される。まるで“映画”というより“動く絵画”であるかのような印象を与えるのだ。
さらに特筆すべきは人物と空間の関係性の不確かさである。同じ廊下を歩いていても次のカットでは全く別の場所に移動しているかのように感じる。これは単なる撮影のトリックではなく「空間の連続性が保たれない」という記憶の曖昧さを映像化した演出だ。
■冷たい美と情念の交錯 — 演技と人物表現
デルフィーヌ・セイリグが演じるAは、まるで人形のように完璧でかつ冷ややかな存在感を放つ。彼女の無表情な顔の奥には無数の感情が潜んでいるようであり観客はそこに意味を読み取ろうとするが決して答えは与えられない。
ジョルジョ・アルベルタッツィ演じるXは、一方的に記憶を語り続ける“語り部”であり、観客にとってのガイドのようでありながら実は最も不確かな存在だ。
彼の語る「去年の出来事」が真実なのか、それとも願望なのかは最後まで不明である。そしてM。彼は存在そのものが謎であり、しばしばAの夫あるいは見張り役、もしくは運命そのもののようにも映る。彼の無表情な顔と冷酷な立ち居振る舞いは、まるでゲームのルールそのものを具現化しているかのようだ。
■“観客”という参加者 — 解釈の無限性
この映画は鑑賞者に「解釈を要求する」どころか「解釈という行為そのものを演出」に取り込んでいる。つまり観客はただの傍観者ではなく「この出来事が真実かどうか」を自らの記憶と想像で埋めようとする“共犯者”となる。
記憶、欲望、否認、反復、構成、そして断片。『去年マリエンバートで』は、これらを論理ではなく感性で組み立てさせるある種の“知的パズル”である。観るたびに印象が変わり、全く異なる解釈が生まれる。まるで映画そのものが生きているかのようだ。
■文学から映画へ、そして芸術へ — アラン・レネの映画哲学
アラン・レネは、常に記憶と時間というテーマに取り憑かれていた。『ヒロシマ・モナムール』では戦争の記憶。『夜と霧』では歴史のトラウマ。そして本作では“個人的な記憶”を対象としている。
だがレネは決してそれを「再現」しようとはしない。むしろ彼は「記憶というものは本当に再現できるのか?」という問いを投げかけ、視覚と言語そして構造そのものを実験台にする。『去年マリエンバートで』は、そうした試みの中で最もラディカルで最も完成度の高い一作だと感じる。
■映画とは、記憶と夢の境界線にある
『去年マリエンバートで』は、簡単に「好き・嫌い」で語れる作品ではない。それは“経験”であり“思考”であり“挑戦”だ。観る者の感性と知性、さらには忍耐をも試すが、その代わりに他の映画では得られない唯一無二の体験を与えてくれる。
現実と幻想の間で揺れる一つの記憶。過去が未来のように夢が現実のように語られるその世界には「意味がない」のではなく「意味を超えている」美が宿っている。鑑賞者皆がこの映画を観終えたとき、頭に残るのはこの言葉かもしれない


