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『白いリボン』と罪なき予兆──ハネケが炙り出す無垢の影

  • 執筆者の写真: Yu-ga
    Yu-ga
  • 5月28日
  • 読了時間: 6分

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🎥白いリボン(原題:Das weiße Band – Eine deutsche Kindergeschichte

監督: ミヒャエル・ハネケ

撮影監督: クリスティアン・ベルガー

出演: クリスティアン・フリーデル、レオニー・ベネシュ、ウルリッヒ・トゥクール、ブルクハルト・クラウスナー ほか

公開年: 2009年

ジャンル: 歴史ドラマ/ミステリー

上映時間: 144分



 ミヒャエル・ハネケの映画には常に“観客を巻き込む”暴力がある。血も飛ばなければ爆音も鳴らない。だが観客の神経をじわじわと削る静謐な暴力がそこにはある。『白いリボン』はその象徴ともいえる作品だ。その静寂は不穏であり、その純白は不潔である。冒頭から漂うこの感覚は時間と共に濃密さを増し、やがて歴史そのものに突き刺さってゆく。本作が問いかけるのは単なる事件の真相ではない。“無垢とは何か” “教育とは何か” “善とはどう暴力と結びつくのか”という社会の倫理構造そのものへの疑義である。本作の副題 “Eine deutsche Kindergeschichte(あるドイツの子どもたちの物語)”にこそ、ハネケの皮肉が凝縮されている。これは子どもたちの物語などではなく“大人たちが形成した倫理の遺伝子”を継ぐプロセスを見せる物語である。


■ 〈構造の解剖〉誰もが「目撃者」であり「加害者」である

 『白いリボン』にはいわゆる“主人公”がいない。語り手は村の教師であり物語は彼の過去の回想という形式を取るが、彼もまた事件の核心には触れられないまま「大人になった者」として語っている。この“語りの距離感”こそが観客に「今、語られているのは真実なのか?」という疑念を生じさせる。物語の信頼性が揺らぐとき観客はより一層、自分の目で真実を見極めようとする。しかしハネケはその目線にすら罠を仕掛けてくる。

 村で起きる数々の事件は明確な動機も説明もなく、ただ「起きる」だけである。医者の落馬に始まり、納屋の放火、障害児の暴行、赤ん坊の誘拐……いずれの事件にも犯人が確定することはない。だが観客の心には、ある疑念が徐々に芽生えてくる。

 「これは子どもたちの仕業ではないか?」

 だがその直感が事実であろうとなかろうと、重要なのは「なぜそう思うに至ったのか」である。観客の中にもまた「子ども=純粋」「大人=腐敗」といった二元論的価値観が染みついている。それが崩壊するとき、私たちは自身の認知の枠組みに疑問を持たざるを得なくなる。ハネケの恐るべきところは、そうした観客自身の“思考構造の暴力性”までも剥き出しにしてしまうことなのだ。


■ 〈演出の倫理〉見せないことで浮き彫りにする現実

 『白いリボン』にはいくつかの特徴的な演出技法があるが、中でも注目すべきは以下の点だ。

  • 画面外の暴力描写:最も残酷な行為は、決して画面には映されない。観客は音や反応で想像し、その想像の過程で自らの暴力性と対峙することになる。

  • 長回し・固定カメラ:感情の過剰な演出を避け、事実を“突き放して”見せる距離感。観客が“目撃者”として自律的に思考するよう誘導される。

  • 冷徹な編集とリズム:物語的な盛り上がりは一切排除され、抑制されたカットの連なりによって沈殿するような不安が観客の中に蓄積される。

 これらの演出はハネケの根底にある「映画が観客に加える暴力への自覚」を貫いている。彼は言う──「私は暴力を描くことには慎重だ。暴力を快楽として消費させないために、観客に責任を持たせるような構造を組む」と。


■ 〈モノクロームの世界〉見ることの暴力、白の中の闇

 本作の美術と撮影の完成度は、まさに“視覚の哲学”と言ってよい。クリスティアン・ベルガーが撮るモノクロ映像は、まるで写真のように精密であり同時に夢の中のように朧げだ。白黒のコントラストは単なる“美しさ”にとどまらず、この世界には“白”も“黒”もない、すべてはグラデーションの中にあるという認識を呼び起こす。

 特に屋内のシーンでは窓から差し込む自然光が人物の顔を半分だけ照らし、もう半分を闇に沈める。この“顔の分断”は登場人物たちの内部にある二面性──表向きの善性と内なる残酷さ──を視覚的に象徴している。また画面に映るものと映らないもの、その両方が画面構成として成立する点も見逃せない。「不在の構図」が持つ緊張感こそが、ハネケ映画の本質にある。


■ 〈子どもたちの“教育”とは何だったのか〉


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 本作の中心にあるのは、明言されないながらも明確な“教育”の暴力である。牧師による過度なしつけ、父親の専制的な家庭支配、学校での形式主義──これらが子どもたちを「従順だが歪んだ倫理観」の持ち主へと育てていく。

 特に牧師の子ども、クララとマルティンの描写には、教育がいかに精神の自由を奪い“罪を未然に罰する構造”になっているかが如実に現れている。牧師は子どもに“悪い考えを持つな”と命じるが、その命令は内面にまで踏み込む抑圧である。こうした教育を受けた子どもたちは、やがて何かを信じることではなく“罰を回避すること”を道徳だと錯覚するようになる。


■ この村は、ナチズムの温床だったのか?

 『白いリボン』を語る上で避けて通れないのは「この子どもたちがナチズムを支える世代になる」という暗示である。ハネケ自身もインタビューで明言しているように、本作の意図は特定の事件の再現ではなく「一つの文化がどのように暴力的な制度を内包し、それを無意識に継承するのか」を示すことである。

 1913年のドイツ農村社会は、封建的、父権的、宗教的規律の中にあり、個人の自由や多様性は“混乱”や“堕落”として排除されていた。この“内面の軍国主義”が第一次世界大戦の敗北とヴァイマル共和国の混乱の中で、より過激な全体主義へと向かっていく。ハネケは『白いリボン』によって歴史的な“結果”ではなく、その“前兆”の空気を描いてみせたのである。


■ 〈観客への問いかけ〉あなたはこの村にいたか?

 『白いリボン』を見終えた観客に残るのは、謎解きの興奮ではなく胸の奥に沈殿するような不快感である。そしてその不快感こそが、ハネケが映画に込めた倫理的効果である。彼は観客を「消費者」としてではなく「思考する主体」として扱う。「あなたは何を見たのか?」「なぜそう見えたのか?」「あなたの中にある“白いリボン”とは何か?」


■ 結ばれたままのリボンを解くために

 この映画は1900年代初頭の物語であると同時に、今なお続く私たちの社会の鏡像でもある。現代にも目に見えない白いリボンは存在する──それは「常識」や「空気」、「秩序」や「同調」と名を変えて私たちの思考を縛っている。

 ミヒャエル・ハネケは観客を不快にさせることで、映画という装置を“道徳的沈思の場”に変える。『白いリボン』は観終えたあとにこそ本当の“鑑賞”が始まる映画である。そして、その白いリボンを自らの手でほどく勇気を私たちはこの作品から得ることができるだろう。

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