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『皆殺しの天使』──出口なき優雅なる檻、ブルジョワ精神の地獄変

  • 執筆者の写真: Yu-ga
    Yu-ga
  • 6月21日
  • 読了時間: 6分

更新日:7月12日


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🎥『皆殺しの天使(原題:El ángel exterminador)』

監督:ルイス・ブニュエル

撮影監督:ガブリエル・フィゲロア

出演:シルビア・ピナル、エンリケ・ランバル、ジャクリーン・アンダーソン、クラウディオ・ブルック、フェルナンド・レイ

公開年:1962年

ジャンル:幻想劇/超現実主義的サスペンス

上映時間:95分



 『皆殺しの天使』は、常に突如として滑り込む異常を描いた作品である。しかし、その“異常”は、SF的な力によってもたらされるものではない。そこには目に見える怪物も超能力も存在しない。ただ人々は“出ようとしない”のだ。

 物語の発端は上流階級の紳士淑女が集う晩餐会。豪奢な邸宅、洗練された装い、美しい食器、そして完璧に整ったメニュー。形式と礼儀の極致であるこの空間が突如として閉鎖された世界と化す。この変容は予兆を伴って描かれる。召使いたちが次々と邸宅を去っていく。誰にも理由は語られず主たちも止めようとしない。奇妙な気配が忍び寄る。

 晩餐会が終わっても客たちはなぜか帰らず客間にとどまり続ける。やがて疲れた者はソファで横になり翌朝になっても誰も帰らない。ついには誰もが出口を前に立ちすくみ“何か”に妨げられているように部屋を出ることができなくなる。だがそれは物理的な障害ではなく見えない心理的な束縛である。この無意識の抑圧、出口のないサロンこそが本作の中心的舞台である。


■因果律の消失:世界の裂け目に生きる

 本作最大の魅力はルイス・ブニュエル特有の「説明の拒絶」にある。映画において出来事には原因があり、展開には論理があるというのが通常の構成である。だがここにはそのような秩序がない。召使いはなぜ逃げたのか?なぜ誰も出られなくなったのか?その問いに対する答えはどこにも提示されない。

 この世界には論理が通用しない。むしろ論理的に考えようとするほど人は混乱し、孤立し、暴走していく。これは我々が普段「常識」として信じている現実がいかに脆い仮構にすぎないかを突きつけるものである。ブニュエルの映画においては夢と現実の境界は曖昧であり状況は観客の期待や理解の上を軽々と飛び越えていく。

 観客はこの世界の住人となる。彼らと同様に出口の見えない空間の中で見えないルールに従わざるをえなくなる。そしてブニュエルはその“理不尽”を笑いと恐怖の間で巧みに揺さぶってみせる。


■ブルジョワ階級という不条理:自壊する文明の末端

 登場人物たちはメキシコにおける富裕な上流階級の人々である。文化的教養、知的素養、経済的余裕、社会的地位。彼らは一見すると秩序ある「市民社会」の象徴であるように見える。しかし本作はこの装飾の下に潜む不安定さ、そして脆さを白日の下に晒す。

 最初こそ彼らは優雅に振る舞い、マナーや体裁を守る。だが日が経つにつれて秩序は音を立てて崩れてゆく。水は尽き、食料は減り、眠りは浅くなり、争いが起こる。やがて彼らは死者を出し、薬をめぐって争い、宗教や超常的解釈に縋り始める。ある者は祈り、ある者は占星術を試み、ある者は絶望して首を吊ろうとする。

 この崩壊の過程は、ブニュエルによる階級社会への寓話的批判である。知識や品位は、生存の危機の前には何の役にも立たない。知性は状況を打開しないどころか、むしろその不条理に対する絶望を深めるための道具でしかない。人間の理性など条件が変わればいとも容易く剥落する──それがブニュエルの冷徹な視線である。


■羊の出現と儀式の再演:脱出のパロディ

 物語の中盤、邸内に羊が現れる。誰かが意図的に連れてきたのではなく、なぜか自然に、あるいは象徴的に現れる。これが何を意味するのか?それは宗教的寓意、群衆心理、犠牲の象徴など、さまざまに解釈されるべきだろう。

 さらに注目すべきは脱出の瞬間である。それは一人の女性が「前夜とまったく同じ配置で同じ言葉を再現しよう」と提案し、それを実行したときに訪れる。この“儀式の再演”によって彼らはようやく部屋を出ることができる。

 これは行動の意味や自由意志が、じつは社会的儀式や制度の繰り返しによって規定されているという批判でもある。我々が自由に振る舞っていると思っている言動は実際には“そうするしかない”という空気の中で成立している可能性があるのだ。羊と人間の境界がぼやけるようなこの場面こそ、ブニュエルの諷刺がもっとも深く鋭く光る瞬間である。


■カメラの魔術:フィゲロアの「閉じる」撮影美学

 撮影を担当したガブリエル・フィゲロアはメキシコ映画界を代表する映像作家である。彼の映像は光と影を通じて登場人物の心理を写し出す。『皆殺しの天使』ではモノクロによる硬質な画面が空間の閉塞感と静的緊張を極限まで高めている。

 扉の前に立つ人々のショットはしばしば画面の奥行きを強調しながらも“前進”を拒むように構図が固定されている。パンやズームは最小限に抑えられロングショットとクローズアップが交互に用いられることで観客の視線もまた閉じ込められていく。

印象的なのは時間の経過が物理的ではなく空気感として演出されている点である。汗ばむ顔、乱れる衣服、薄暗くなる照明、ソファのへたり、変わらぬ構図。すべてが「止まった時間」の感覚を強化し、視覚的に無限ループのような地獄を描いている。


■「出られない」の再帰:ラストシーンにこめられた絶望と笑い

 登場人物たちは、ようやくの思いでサロンから脱出する。希望に満ちた安堵の表情を見せながら、教会で感謝の祈りを捧げる。だがそこで再び観客は目撃する。彼らはまた「出られなくなる」のだ。教会の中で誰もが立ちすくみ、沈黙し、微動だにしない。そして扉はまた閉ざされる。

この終幕こそがブニュエルによる決定的な皮肉であり真の恐怖である。出ることが救いではない。むしろ「出られないこと」そのものが構造化されている。制度が変わっても人はまた同じ枠組みに囚われる。

 ラストシーンに羊が入り込み聖歌が響く。無垢と犠牲と儀式が教会という権威の下で融合していく。ここに至ってブニュエルは笑う。観客もまた笑うしかない。だがその笑いの奥には冷たい現実認識がある。「すべての場所が牢獄たりえる」という人間存在への根源的な問いがあるのだ。


■出口の鍵を握るのは観客自身である

 『皆殺しの天使』は観るたびに新しい読み解きを生み出す稀有な作品である。社会批判として宗教風刺として、心理劇として、あるいは単なる悪夢として。本作の魅力はどこにも限定されないことである。

ブニュエルは答えを与えない。鍵を渡さない。だがそこにあるのは観客自身が見出すべき「問い」の豊かさである。あなたはその部屋から出られるだろうか?

その答えは映画が終わった後も自分たちの中で静かに問い続けられる。

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