『荒野の千鳥足』──文明と野蛮の間に漂う灼熱の幻影
- Yu-ga

- 6月8日
- 読了時間: 4分

🎥『荒野の千鳥足(原題:Wake in Fright)』
監督: テッド・コッチェフ
撮影監督: ブライアン・ウェスト
出演: ゲイリー・ボンド、ドナルド・プレザンス、チップス・ラファティ、シルヴィア・ケイ
公開年: 1971年
ジャンル: サイコロジカル・スリラー/ニュー・オーストラリアン・シネマ
上映時間: 約108分
『荒野の千鳥足』はオーストラリア映画界が1970年代に生み出した最も苛烈で最も神経を逆撫でする作品である。テッド・コッチェフ監督はアメリカ人でありながら、この地に潜む狂気の鼓動を見事に掬い取った。舞台はオーストラリア内陸部の田舎町「バンダナ」、灼熱と砂埃が支配する忘れ去られた土地である。
都会から来た若き教師ジョン・グラントは、この町で一夜を明かし列車でシドニーへ戻るはずだった。だが町の“好意的な”人々に囲まれるうちに、彼の理性はアルコールと暴力、欲望の渦のなかで緩やかに溶解していく。観る者は次第に、この「親切な地獄」がいかにして人を壊すかを目の当たりにする。
■ 荒野という精神の鏡──土地と男の分裂する境界線
オーストラリアの内陸部は、乾き切った大地以上に精神の荒廃を象徴する場である。ブライアン・ウェストの撮影はこの空間をただの背景としてではなく、精神のメタファーとして撮っている。遠景で溶けゆく地平線。夜の闇を照らす蛍光灯の冷たい光。砂埃が舞う荒野の中、ジョンの顔は次第に無表情となり無垢から獣性へと変貌してゆく。
この映画では自然すらも味方にならない。木陰はない。水は少ない。文明のフレームの中にいた男が文明の仮面を外されたとき、どれだけ脆弱であるかが冷酷なまでに描かれる。
■ アルコール、暴力、そして狩猟──祝祭に隠された地獄の構造

この作品でもっとも衝撃的なシーンのひとつはカンガルー狩りの場面である。夜の荒野をジープで駆け回り動物たちを撃ち殺す様は祝祭的でありながらも野蛮極まりない。しかもその多くは実際のハンティング映像であるため、観る者にフェイクの逃げ道を与えない。
アルコールは町の住民たちの共通言語であり、無理やりにでもグラスを差し出すその姿は「親切」というよりも逃げ場のない強制に近い。グラントもまた、その沼に自ら足を踏み入れ泥酔の果てに自我の崩壊を経験する。
■ ドナルド・プレザンスの狂気──医師の顔をした悪魔
この映画を忘れがたきものにしている最大の要素はドナルド・プレザンス演じる“ドク”の存在である。彼は医者でありながら狂気と退廃の象徴であり、ジョンを深淵へと導く案内人でもある。彼の論理は一見まともでありながらも、その先に待つのは倫理の消失と破滅である。
プレザンスは冷笑的な台詞回しと、酒に酔った体の揺れを通じて「まともな狂人」を体現する。その存在が作品に付与する毒素は計り知れず観客は彼の笑顔に恐怖を覚えることになる。
■ 遺作として甦った幻の一作──映画保存と再評価の奇跡
『荒野の千鳥足』は長らくフィルムの所在が不明となっていた「幻の映画」である。2004年、オリジナルネガが奇跡的に発見され、デジタルリマスターによって再評価の機運が高まった。その際にクエンティン・タランティーノやマーティン・スコセッシが賛辞を送ったことでも知られている。
この復活劇自体がまるで映画のテーマと重なるようである。「忘れ去られたもの」が「姿を変えて甦る」。それは人間の記憶や罪の構造とも通底する。時間が過ぎても癒えぬ傷、あるいは時間が過ぎたからこそ見える狂気。それをまざまざと見せつける映画である。
■ 終わらない酩酊、抜け出せない荒野
『荒野の千鳥足』というタイトルは、ただの酔いどれの姿を表すものではない。それは文明という外皮を剥がされた人間が内側から野性に引き裂かれていく様のメタファーである。教師という理知の象徴が酒と暴力と孤独によって次第に“別の何か”になっていく過程は観客に対して強烈な問いを突きつける。
我々の内なる荒野とは何か。人間は本当に理性によって守られているのか。それとも環境が変わればすぐに本能の獣に戻るのか。
この作品に答えはない。ただ静かに、だが逃げ場なく観る者の精神の奥底を蝕んでいくのである。


