『血を吸うカメラ』──レンズの奥に潜む狂気。視線の地獄。
- Yu-ga

- 6月9日
- 読了時間: 4分

🎥『血を吸うカメラ(原題:Peeping Tom)』
監督: マイケル・パウエル
撮影監督: オットー・ヘラー
出演: カール・ベーム、アンナ・マッセイ、モイラ・シアラー、マックス・ラインハルト、ブレンダ・ブルース
公開年: 1960年
ジャンル: サイコロジカル・スリラー、ホラー
上映時間: 約101分
『血を吸うカメラ』はイギリス映画界の名匠マイケル・パウエルがコンビを組んでいたエメリック・プレスバーガーとの共同制作体制を離れたのち、単独で監督した作品である。しかし、この映画が公開された当時のイギリス社会は異様に冷酷であった。作品に対する反発は激しく、批評家たちは「病的」「悪趣味」「映画界の恥」と糾弾した。
とりわけ殺人を映像で記録する主人公マークの行為は“映画を撮ること”そのものへのメタ的批評を内包していたため、多くの観客にとって耐え難い不快感をもたらした。監督パウエル自身も映画界から追放されるような憂き目に遭い、以後長く冷遇されることとなった。
それほどまでに本作は観る者の無意識を脅かし、映画というメディアの根源的な暴力性を突きつけたのだ。
■カメラと殺人の蜜月関係
本作の主人公マークは映画スタジオで働く青年でありながら自らのカメラで女性を撮影しつつ、その撮影中に殺害するという異常な嗜好を持つ。彼の目的は殺される瞬間の恐怖の表情をフィルムに収めることにある。しかも彼のカメラには特殊な仕掛けがあり、三脚の一部が鋭利な刃物となっていて撮影と殺人が一体化している構造だ。
この“視る”という行為と“殺す”という行為が不可分に結びついている点に本作の恐ろしさはある。観客はマークの視点を通じて、殺人そのものを「見る」立場に置かれ、やがて自身の視線そのものが加害的であるかのような不安に陥る。『血を吸うカメラ』は単なるホラーではなく、視線の倫理と快楽に踏み込んだ哲学的スリラーである。
■トラウマとしての幼少期──記録された恐怖
マークの異常性は幼少期に父親から受けた心理的虐待に根ざしている。彼の父は心理学者であり、子供の恐怖反応を研究対象として撮影していた。つまりマークは人生の初期から“見られる”ことと“恐れる”ことが一体化した経験を積み重ねてきたのである。
この記録された恐怖体験は映画全体を貫くテーマでもある。カメラは記憶を封じ込める装置であると同時に、トラウマを反復するための“呪具”とも化す。『血を吸うカメラ』はホームムービーすらも呪術的に扱う稀有な作品であり個人の記録が狂気と化す過程を描いている。
■映像言語としての「レンズの暴力」

本作の撮影監督オットー・ヘラーは徹底して主観映像を活用し観客に殺人者の視線を強制的に体験させる。とりわけカメラを通した視界に被写体が近づき、悲鳴をあげて画面が暗転するシークエンスは観客自身が“その場にいる”かのような錯覚を覚えるほどだ。
また、赤いライトの点滅や鏡面の反射、階段の斜め構図といった視覚的手法により空間そのものが歪んで感じられるよう設計されている。視覚の不安定さは主人公の精神的揺らぎと見事に重ねられ、観客の感覚までも狂わせていく。
■再評価と復権──スコセッシによる“救済”
当時は罵倒されたこの作品も、1980年代以降ようやく再評価の機運が高まり始めた。その立役者の一人がマーティン・スコセッシである。彼は本作を「ホラー映画でありながら、映画そのものへの深い愛と恐れを語る作品」と絶賛し、復刻のための資金援助も行った。
今日では『サイコ』(ヒッチコック、1960年)と並んでモダン・スリラーの礎を築いた映画として位置づけられており、ブライアン・デ・パルマやダリオ・アルジェントなどの映像作家たちにも多大な影響を与えている。
■視線の倫理を問う、いまなお危険な作品
『血を吸うカメラ』は60年以上を経てもなお、その視覚の暴力性において観客を緊張させる力を持っている。現代においては“見ることの快楽”がかつてないほど氾濫している。SNS、監視カメラ、リアリティ番組 ── 視ること、見られることは、もはや現代人の生存戦略の一部と化している。
だからこそ本作が問う「視線の責任」「記録することの暴力性」は、ますます鋭さを増している。『血を吸うカメラ』はいま観るからこそ、いっそう恐ろしく、そして意義深い映画である。


