『赤い砂漠』── 孤独の地形図としての色彩と音響
- Yu-ga

- 6月12日
- 読了時間: 6分

🎥『赤い砂漠(原題:Il deserto rosso)』
監督: ミケランジェロ・アントニオーニ
撮影監督: カルロ・ディ・パルマ
出演: モニカ・ヴィッティ、リチャード・ハリス、カルロ・キオッソーニ
公開年: 1964年
ジャンル: ドラマ/心理劇/モダニズム映画
上映時間: 117分
『赤い砂漠』が描くのは、単なる産業社会の風景ではない。無機質なパイプや煙突、濁った水、煤けた鉄の構造体──これらは都市の風景ではなく主人公ジュリアーナの心象風景である。彼女は交通事故の後に「異常」を呈し、その異常は目に見えるようで見えない。精神分析のように「理由」を探る物語ではなく状態そのものを描く映画である。
ミケランジェロ・アントニオーニは感情を説明することに興味がなかった。それよりも感情がどのような空間に棲むのか、どのように世界と関係し合うのかという問いを持ち続けた。『赤い砂漠』はその試みの集大成であり、風景が人物に侵食し、逆に人物が風景を染め上げるという双方向的な関係がスクリーン上で展開される。
■ジュリアーナという存在──壊れたのか、それとも拒絶したのか
ジュリアーナという女性は常に違和感を放っている。動作が遅れ、言葉が間延びし周囲とリズムが合わない。彼女は「社会の音楽」からズレたように存在している。だがそれは単なる心因性の病ではない。むしろ社会そのものが「正常性」を強制する機械でありジュリアーナの不適応はその暴力に対する消極的な抵抗なのではないかとも思える。
彼女の息子とのやり取り、夫との会話、知人たちとの雑談──すべてが意味を結ばない言葉の断片として浮遊している。言葉は情報ではなく、むしろ「誤解の連続」として描かれる。それはポスト構造主義的な不安、すなわち「言葉が通じないことが前提の社会」における孤独であり、映画そのものがその感覚を再現している。
■色彩設計という革命──絵画を超えた視覚構築
カルロ・ディ・パルマの撮影によって本作は映画史における「色彩表現の金字塔」となった。背景となる建物、地面、植物、霧、壁──すべてがアントニオーニの意図によって着色され、実際には存在しない「人工の自然」が構築されている。これにより観客は無意識のうちに視覚的ストレスを感じる。なぜなら自然であるはずの風景が「異質」だからである。
この色彩表現はジュリアーナの内面の映し鏡として機能するだけでなく、観客の感覚そのものに直接働きかける。赤、灰色、青、白──それぞれの色が感情と結びつき、説明ではなく感覚のレベルで伝わる。もはや絵画以上に「心理」を表現する視覚芸術として本作はモダンアートと映画の交差点に立っている。
■音の美学──機械音と沈黙のあいだで
音響設計においてもアントニオーニは特異である。『赤い砂漠』では環境音がことさらに強調され、機械の唸り、蒸気の吹き出す音、電子信号のような断続音が画面にまとわりつく。これらの音は自然音の代替物として、観客の聴覚に「不安」を埋め込む。
また、音の「ない」時間も重要である。沈黙は恐怖や空虚の象徴として使われ、ジュリアーナが一人で立ち尽くす場面では音が消失することによって周囲の世界との断絶が際立つ。つまり音響はこの映画における「もう一つの風景」なのだ。
■不在の人間性──リチャード・ハリスと対話の不可能性
コラルド(リチャード・ハリス)はジュリアーナの「救済の予感」を孕むキャラクターとして登場する。だが、彼との関係もまた期待されたようなカタルシスには至らない。コラルドは親切であり耳を傾けようとするが、結局はジュリアーナの深部に届かない。彼女は救われるべき存在ではなく「誰にも届かない場所にいる」ことこそが存在の本質であるかのように描かれる。
この構造は他者との関係性をめぐるアントニオーニの主題の反復である。彼の映画では常に「言葉は届かない」「感情は理解されない」「距離は埋まらない」という断絶が支配している。それゆえに本作の人間関係は根本的に「不在」の上に成り立っているのである。
■夢と記憶の断片──唯一の色彩に満ちた海の風景

映画の中盤、ジュリアーナが語る幻想的な「色彩豊かな海辺の情景」は本作における唯一のオアシスである。この場面だけは色彩が鮮やかで波の音も心地よく、風景が穏やかに広がる。ここではジュリアーナの内面が一瞬解放される。だがそれはあくまでも夢であり現実に戻れば再び赤茶けた砂漠の中に投げ出される。
この「幻想のシークエンス」は彼女が望んでいるもの、つまり自然と調和し、色彩と音のある世界に生きるという欲望を象徴する。それと同時にそれがいかに到達不可能なものであるかという「哀切」も内包されている。この場面を通じて観客はジュリアーナの悲しみが単なる個人的体験ではなく、現代社会そのものの構造から生じていることを理解する。
■モダニズム映画としての達成と限界
『赤い砂漠』はモダニズム映画としての典型例である。物語が「何を伝えるか」ではなく「どのように伝えられるか」が主眼となり、登場人物の心理をドラマティックに暴露するのではなく、風景や色彩、沈黙、視線の揺れによって間接的に表現する。そのため観客には「理解できない」という反応を抱かせるかもしれない。だがそれこそがアントニオーニの意図である。
彼の映画は、観客の感情に応えない。答えを用意しない。だがそれゆえに観る者は「考える」ことを強いられ、「感じる」ことを促される。『赤い砂漠』は映画というメディアがどこまで感覚に迫れるかという実験であり、その結果として「物語を持たない物語」が浮かび上がる。
■『赤い砂漠』以後──色彩と孤独の映画たち
本作以降、アントニオーニの映像表現はさらに抽象化されてゆくが『赤い砂漠』はその転換点に位置している。以後、色彩はベルイマンやタルコフスキーらの映画においても心理的記号として使われるようになり、現代映画における「内面の可視化」の技術的・美学的基盤となった。
またジュリアーナのような「社会に適応できない女性像」は、のちのシャントル・アケルマンやラース・フォン・トリアーの作品にも通底しており、その系譜においても『赤い砂漠』は極めて重要な作品である。
■色と音で描かれる「孤独という現実」
『赤い砂漠』は、観る者にとって安易な共感や感動を与える作品ではない。それどころか不安にさせ、疑問を抱かせ、突き放すような作風である。だがそこには明確な美学がある。孤独を美化せず、また癒しも用意せず、ただありのままに描くこと。それを可能にするのは色彩と音響、空間の操作という映画的表現に他ならない。
ジュリアーナの「赤い砂漠」は彼女一人のものではない。それは現代を生きる我々すべての内部に広がる風景であり、目を背けたくなるほどのリアルさを持って迫ってくる。それゆえにこの映画は半世紀以上を経た今も、なお語られ、感じられ、そして畏れられているのである。


