イニャリトゥ『ビューティフル』──壊れた美しさの中に宿る魂
- Yu-ga

- 5月20日
- 読了時間: 4分
更新日:5月23日

🎥 『ビューティフル(原題:Biutiful)』
監督: アレハンドロ・G・イニャリトゥ
撮影監督: ロドリゴ・プリエト
出演: ハビエル・バルデム、マリセル・アルバレス他
公開年: 2010年
ジャンル: ヒューマンドラマ/スピリチュアルドラマ
上映時間: 148分
『ビューティフル』が映し出すのは、バルセロナの裏側、都市の影にひそむ人々の“見えない生活”だ。監督アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥは、この都市に生きる一人の男の「終わり」から「人間の尊厳」と「救いの可能性」を描こうとしている。
■イニャリトゥの“断片”から“全体”へ:初の単独脚本が意味するもの
アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥは、これまで群像劇の名手として知られてきた。『アモーレス・ペロス』『21グラム』『バベル』などでは複数の視点と時間軸を用い、世界の断片を繋ぎながら人間の業や運命を描いてきた。だが『ビューティフル』は異なる。脚本は初めての単独執筆、物語は主人公ウスバルの視点で一貫して進行する。彼の人生、彼の痛み、彼の選択に、観客は密接に寄り添うことを求められる。これはイニャリトゥにとっての“リセット”であり“挑戦”だ。『ビューティフル』は彼のキャリアの中でも最も個人的で、最も感情的な作品であるように思う。
■「美しい」という綴りを誤った子どもの言葉
タイトルの『Biutiful』は、英語の「Beautiful」のスペルミスだ。これは劇中でウスバルの子どもが書いた文字であり、世界の「正しさ」や「清潔さ」からはみ出した存在を象徴している。貧困、不法労働、移民問題、家庭崩壊——現代社会の裏側で生きる人々の“誤った”生き方をイニャリトゥは「それでも美しい」と語ろうとする。そのメッセージは社会の周縁にいる者にこそ寄り添い静かに、だが力強く観客に問いかける。
■バルデムが体現する“人間の尊厳”

主人公ウスバルを演じるのはスペインが誇る俳優ハビエル・バルデム。彼は本作でカンヌ国際映画祭・男優賞を受賞しアカデミー賞主演男優賞にもノミネートされた。この映画における彼の演技は、「役を演じる」ことを超え「存在する」ことに到達している。病に侵され、倫理に揺れながらも子どもたちのために必死に“良き父”であろうとする姿は痛ましくも美しい。彼の苦悩、そして祈りを観客はただ目をそらせずに見つめることになる。
■バルセロナの裏側を描くロドリゴ・プリエトの魔術
撮影監督ロドリゴ・プリエトの手腕も見逃せない。これまでにも『ブロークバック・マウンテン』『ザ・アイリッシュマン』などで知られる名カメラマンだが、本作での映像は特筆に値する。カタルーニャの首都バルセロナ——その観光イメージとは真逆の暗く冷たく密閉感のある都市の裏側が青灰色のフィルターを通して描かれる。
街は決して「美しい」ものではないが、その不完全さが逆説的に物語の核心に迫っていく。
■生と死のはざまで:スピリチュアルと社会派の融合
『ビューティフル』が他の社会派ドラマと一線を画すのは“死者と交信できる”というスピリチュアルな要素を含んでいる点だ。リアリズムに徹するのではなく、時に幻想的な描写を織り交ぜることで人間存在の「見えない側面」にまで踏み込む。
ウスバルが目にする亡霊たちは単なる演出以上の意味を持つ。そこには「未完の感情」「果たせなかった責任」「贖いきれぬ罪」などが投影されており、観客もまた自らの記憶や後悔と向き合うように仕向けられる。
■世界の片隅に生きる者たちの声
ウスバルの周囲には多くのマイノリティたちが描かれる。アフリカからの不法移民、過労に苦しむ中国人労働者、精神障害を抱える妻。彼らはすべて「声なき者たち」だ。イニャリトゥは彼らの現実を誇張することなく、同情でもなく、ただそこにある存在として映し出す。それは冷徹なリアリズムではなく、むしろ深い共感と尊重に満ちている。映画が終わった後、その“声”が耳の奥にずっと残り続ける。
■絶望の中に宿る一縷の光
『ビューティフル』は決して気軽に観られる映画ではない。テーマは重く、救済も曖昧だ。けれどその奥に宿る“光”はただのハッピーエンドでは与えられない種類の希望だ。それは、たとえ崩れゆく世界の中でも人は誰かのために、何かのために、生きようとする意志。それこそがイニャリトゥが提示する「人間の美しさ」なのかもしれない。
最後に、僕はこの作品公開時に渋谷の映画館で鑑賞した。エンドロールが終わった後も暫く立ち上がる事ができなかった。『ビューティフル』は時間をかけて咀嚼することで自分の中に“何かが残る”作品である。その残滓は痛みであり、そして希望だ。
イニャリトゥはこの作品で、我々に問いを投げかける。
「あなたは、何のために生きるのか」と。


