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ジョン・マクノートン監督『ヘンリー』と実在の殺人鬼ヘンリー・リー・ルーカスについて

  • 執筆者の写真: Yu-ga
    Yu-ga
  • 6月7日
  • 読了時間: 4分
Henry Lee Lucas and Otis Toole
Henry Lee Lucas and Otis Toole

■ヘンリー・リー・ルーカス──虚構を飲み込む“自称”大量殺人鬼

 映画『ヘンリー』はアメリカの実在の連続殺人犯、ヘンリー・リー・ルーカス(Henry Lee Lucas)に “インスパイアされた” とされている。だが実のところこのモデルはきわめて曖昧かつ複雑である。というのもルーカス自身が供述において途方もない虚言を繰り返しており、真実と妄想が判別不能な人物だったからだ。

 彼は逮捕後、600人以上を殺害したと自白した。もしこれが事実であれば史上最悪の大量殺人鬼である。しかし後の捜査によって、その多くが彼の捏造であることが判明した。アリバイのある事件ですら「自分がやった」と言い張るなど、捜査官の注目を浴びたいという自己顕示欲と精神的な不安定さが入り混じった証言だったのである。

 ルーカスの供述に付き添い、共犯者として語られたのがオーティス・トゥール(Ottis Toole)。彼もまたルーカスと同じく虚実入り混じった証言を繰り返し「地獄の天使」や「食人クラブ」などの逸話を撒き散らした。つまりこの二人は“真の怪物”というより“メディアによって作られた怪物”であり、その虚構性こそがアメリカ社会の闇を映し出していたのだ。


■“事実”の解体としての『ヘンリー』──語られない過去、見せない犯行

 ジョン・マクノートン監督は、こうした実録犯罪ものの“怪物伝説”をそのまま映画化する道を選ばなかった。むしろ逆である。ルーカスの過去も犯行の詳細も、映画のなかではほとんど触れられない。

 これは明確な意図である。『ヘンリー』は“事実を再現する”ことを目的としていない。むしろ“事実という幻想”を破壊し、殺人という行為そのものの「記録不可能性」「説明不可能性」を突きつけてくる。ヘンリーはルーカスのようにペラペラと語らないし自分を正当化しない。

 この違いは大きい。ルーカスは“語りたがる男”でありヘンリーは“語らない男”だ。つまり『ヘンリー』の主人公は、実在のルーカスに触発されながらも“彼が語らなかったこと”“語れなかったこと”を映像で示す存在として設計されているのである。


■“怪物”を生むのは誰か──マスコミ、警察、観客

 実在のルーカスは、1980年代初頭に“アメリカ史上最悪の連続殺人鬼”として全米を震撼させた。しかしその真相が虚言であると判明したあとも、彼の名は“悪の象徴”として語られ続けている。なぜか?

 それはルーカスという存在が「怪物」を必要としたメディアや法執行機関、そして観客によって“物語化”されてしまったからである。大量殺人というショッキングな物語は社会が抱える暴力や不安の“象徴”として機能する。つまり彼らのような怪物を「信じたかった」のは実は我々自身だったのかもしれない。

 『ヘンリー』という映画はそうした“怪物を物語化する欲望”に対する冷ややかな批判でもある。主人公のヘンリーは誰にも語らせず、語ろうともしない。過去も明かさず、動機も示さず説明も拒む。その沈黙によって彼は“虚構にならない怪物”として成立している。これは我々が普段見ている“殺人鬼ドキュメンタリー”や“実録映画”とは根本的に対極のスタンスである。


■映画は“真実”に勝てるのか──虚構の倫理と実在の不安

 『ヘンリー』は映画というフィクションの形式を通して、かえって実在の連続殺人鬼よりも深く「人間の内にある暴力」や「社会が作り出す無関心」に迫っている。実在モデルであるルーカスが、ある種のショービジネス的な“悪役”としてメディアに踊らされたのに対し『ヘンリー』の主人公は、あくまで静かな地獄の底で、ただ“存在し続ける”。

 この“虚構の倫理”の方が時に“事実”よりも多くを語る。なぜなら現実のルーカスの供述はもはや信用できず、矛盾に満ちていた。一方で語らないフィクションのヘンリーは観客自身の“想像力の暴走”を呼び起こす。それこそが最も現代的な“恐怖の形式”なのだ。

 つまり映画『ヘンリー』は実在の犯罪を映像で再現することではなく「我々が怪物を求めてしまう心理」そのものを暴き出す作品なのである。


■まとめ──“実録”を超えて倫理の彼方へ

 映画『ヘンリー』は実在の連続殺人犯ヘンリー・リー・ルーカスから着想を得ているが、実録映画としての役割を意図的に放棄し、むしろ“記録され得ない何か”に迫ろうとする。その結果、映画は“現実の怪物”よりもずっと静かで、そしてずっと不気味な“存在の記録”として観客の心に巣食う。

 ルーカスのような“自称大量殺人犯”がアメリカ社会の欲望と虚構によって巨大化された象徴だったのに対し、映画『ヘンリー』はその物語化そのものを拒絶し、沈黙する。だからこそ『ヘンリー』という“肖像画”は、今なお恐ろしいまでの現代性を保ち続けているのだ。


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