地獄の建築家 ──『ハウス・ジャック・ビルト』に見る冷笑と神話の構造体
- Yu-ga

- 6月14日
- 読了時間: 9分

🎥『ハウス・ジャック・ビルト(原題:
The House That Jack Built)』
監督: ラース・フォン・トリアー
撮影監督: マヌエル・アルベルト・クラロ
出演: マット・ディロン、ブルーノ・ガンツ、ユマ・サーマン、シオバン・ファロン・ホーガン、ソフィー・グローベール
公開年: 2018年
ジャンル: サイコロジカル・ホラー/スリラー
上映時間: 152分(ディレクターズ・カット版:約155分)
ラース・フォン・トリアーは映画を「神経の病巣へ直接触れる手段」と捉える稀有な作家である。『ダンサー・イン・ザ・ダーク』で感情の臓腑を抉り、『アンチクライスト』で性と死を融合させた彼は『ハウス・ジャック・ビルト』でついに倫理と美、創造と破壊という主題の最深部にまで手を伸ばす。
本作は単なるシリアルキラー映画ではない。これは地獄と美術館とを同時に漂流する血まみれの精神史である。殺人者ジャックの自白というかたちをとりながらも物語の実体はトリアー自身の内面とキャリアに対する自己弁証法であり「映画における倫理と暴力の相互依存」という不快な命題を極限まで拡張した実験劇とも言える。
■ 物語構造:記録・懺悔・崇高
映画は五つの「インシデント(事件)」で構成されており、それぞれがジャックの殺人とその背後にある動機、記憶、観念を描く。各章の間にはジャックと謎の案内人ヴァージ(のちに地獄を導く者と判明する)との対話が差し込まれ、哲学的な省察や神話的隠喩が交わされる。
この構造はただのフラッシュバックでも犯罪告白でもない。むしろこれは〈自己神話化〉のプロセスである。ジャックは自らの人生を「一つの建築作品」として語り、殺人を創造行為とみなす。語りの口調には自負と陶酔が混ざり、時に滑稽なほど誇大妄想的であるが、その誇張こそが彼の精神の真実なのだ。
■ 脚本構造の工夫:会話と殺人の交差点

脚本の巧妙さは殺人描写と哲学的対話との〈二重構造〉にある。物語の表層は連続殺人のドキュメントのように見えるが、そこに並走するジャックとヴァージの対話は、まるでギリシア悲劇のコロスのように行為に対する意味づけを担っている。
例えば「インシデント2」ではジャックが未亡人を欺きながら殺す過程が淡々と描かれるが、その直後に彼は自らの「洗浄強迫(OCD)」を告白する。殺人のたびに現れる潔癖症的行動(血痕の拭き取り)と、それに続く哲学的省察はトリアーにとって「芸術が倫理と葛藤する構造」の比喩でもある。
また脚本は観客の期待や耐性を裏切る構造を内包している。ユマ・サーマン演じる女性が車に乗せられるシーンでは、観客の多くが「このあと彼女は殺される」と予測する。しかしその予測が的中してもなお、その後の展開は倫理的な苦痛を与える。観客が犯行を“見る”だけでなく“共犯的に味わう”仕組みが、脚本そのものに織り込まれている。
■ キャラクター造形:現代的ナルキッソス
マット・ディロン演じるジャックは神経質で自己陶酔的な現代のナルキッソスである。彼は論理的で知的な語り手でありながら同時に人間性の壊死を露呈した空洞のような存在でもある。
ジャックの人物像を支配しているのは「目的論的創造衝動」である。彼は建築家でありながら家を完成できず、それを殺人によって代替する。建築の失敗を殺人で贖うという倒錯したロジックは彼にとっての「自己救済」であり、世界に秩序を与える手段とされている。
興味深いのは、ジャックが自己を「見られる」存在として意識している点である。彼は常に自分の行動を「語る」ことで記録し神話化する。つまり彼は「自己を物語に変える殺人鬼」であり、そこに芸術家の構図が重なる。
■ 神話的構造:『神曲』の地獄と芸術家の魂
ジャックとヴァージの関係は、明らかにダンテ『神曲』の「ダンテとヴェルギリウス」に準えて構成されている。地獄を案内する導師ヴァージはジャックの人生と罪を一つ一つ吟味し、彼を最下層へと導く。
興味深いのは、ジャックが地獄の最奥部で「登ってはいけない壁」を登ろうとする点である。彼は常に「上昇(昇天、救済、芸術的超越)」を志向している。だがそれは倫理的贖罪を経ていない上昇であり、ゆえに失敗する。芸術を通じて神へ近づこうとする欲望と、その不完全さがジャックを突き落とす。この構造そのものがトリアーの芸術家としての苦悩を象徴している。
■ 哲学的モチーフ:芸術と悪の弁証法
『ハウス・ジャック・ビルト』における哲学的命題は「悪は芸術になりうるか?」という一点に集約される。ジャックはヒトラーや建築、音楽、自然美を引き合いに出し、殺人を高次の創造行為として語る。これは『アウシュヴィッツ以後、詩は可能か』というアドルノの問いに対する極めて挑発的な返答である。
また映画内では「不完全性」や「欠損」が重要な意味をもつ。ジャックの建築は完成せず、芸術は常に未完成であり彼の殺人は美と醜の中間に留まる。この曖昧さこそがトリアーの作品に共通する「倫理と美学のねじれた結節点」であり、観客に思考を強いる仕掛けである。
■ 映像と音の美学:地獄的な静謐さ
マヌエル・アルベルト・クラロの撮影は、凍てつく冷徹さと奇妙な静謐さを備えている。コントラストの強いライティングと緻密な構図は血と暴力の現場に不気味な秩序を与えている。また、クラシック音楽(グレン・グールドによるバッハ)やデヴィッド・ボウイ「Fame」の使用も作品に時空を超えたアイロニーを添える。
特に印象的なのは地獄の下層へと降りていく一連のカットである。暗黒の川を渡り、赤い光に包まれた無限の奈落へと沈んでいく描写はまさしく黙示録的であり終末的幻想の結晶である。
■ トリアー自身の肖像画
『ハウス・ジャック・ビルト』はラース・フォン・トリアーが自らの内面に設計した巨大な迷宮である。倫理と芸術、狂気と知性、救済と地獄の境界を突き崩しながら観客を思考の深淵へと引きずり込む。
本作において描かれるジャックの姿は決して「他人事の怪物」ではない。それは創作者が抱える無限の自意識と自己嫌悪の鏡像でもある。だからこそ本作は我々に問いかける。「おまえはこの狂気を笑えたか? それとも理解したか?」
そしてスクリーンが暗転したのちにも、あの赤い地獄の残像は我々の瞼に焼きついたまま離れないのである。
上記コラム補遺篇

■ ナチズムと建築:破壊による秩序の夢
ジャックが劇中でナチズム、特に建築家としてのヒトラーやアルベルト・シュペーアに言及する場面は、単なる挑発ではない。それは〈暴力によって秩序を作り出すという歪んだ美学〉に対するトリアーの執着であり、本作の核とも言えるテーマの一つである。
ジャックは「建築こそが最も崇高な芸術である」と語るが、彼の挙げる例は戦争や大量虐殺と不可分な独裁者の作品である。ここで提示されるのは〈究極的秩序=究極的破壊〉という倒錯の論理だ。建築は形と空間を与えるが、同時に古いものを「破壊」せねばならない。この“破壊の美”がジャックの殺人にも通底している。
彼は人間の命を素材とし、屍の山を「建築資材」として再構成する。死体で組み上げられた“家”が象徴するのは理念に取り憑かれた個人がどこまで非人間的になれるか、という人間存在の暗黒面である。ジャックが信じる「秩序」は他者の生を否定することでしか成立しない——その意味で彼はまさしく“ミニチュアの独裁者”なのである。
この思想の危険性は、トリアーがナチズムに言及する際に繰り返してきた皮肉と自己嫌悪にも通じる。かつてカンヌでの失言(ヒトラーに対する“理解”の表明)によって世界から袋叩きにあったトリアーは、ここでその問題を正面から主題に据え、自身の〈危うい思想傾向〉すら作品化するという極めて倒錯的かつ誠実な自己批評を行っている。
■ トリアーのフィルモグラフィー的文脈:破壊される女たち、自己を神格化する男
『ハウス・ジャック・ビルト』はラース・フォン・トリアー作品における、ある種の〈終着点〉でもある。初期から一貫して彼の映画には「苦悩する女」と「神を模倣する男」が描かれてきた。『奇跡の海』『ダンサー・イン・ザ・ダーク』では殉教者のような女性たちが理不尽に破壊され『アンチクライスト』ではその破壊が性と自然のイメージと結びつけられた。
その意味で『ハウス・ジャック・ビルト』はこれまで「破壊される側」であった女性たちが、ついに「破壊する側」の男によって明確に語られる作品である。ジャックはまるで『奇跡の海』の男性医師、『アンチクライスト』のセラピストの“成れの果て”のようであり、トリアー作品の男たちの暴力性と冷酷さが極限まで純化された存在である。
さらにヴァージとの対話という構造は、トリアー作品に通底する“神との対話”を想起させる。『ドッグヴィル』や『メランコリア』では世界の理不尽に対して神が不在であることが暗示されるが、本作ではその“神なき空間”において自己を神の位置に据えようとする人間(ジャック)の傲慢が描かれる。
つまり『ハウス・ジャック・ビルト』は〈神を演じることに失敗した映画作家トリアー〉のメタフィクショナルな自画像とも読めるのである。
■ 音楽の文脈:バッハとボウイ、構造と解体の共鳴
映画を特徴づけるもう一つの要素は、音楽の使い方である。バッハのピアノ演奏(グレン・グールドの演奏)と、デヴィッド・ボウイの「Fame」が象徴的に配置されている。
まずバッハ。彼の音楽は構造性と秩序、神的な調和を象徴する存在であり、特にグールドによる演奏は機械的な精緻さと、冷たい完璧主義の極致として知られている。 これはジャックが希求する〈秩序としての芸術〉を象徴しており、殺人行為と音楽的構築のアナロジーを浮かび上がらせる。
しかしこの音楽は時に不気味に流れ、殺人の瞬間と重なることで〈不穏な崇高さ〉をまといはじめる。つまり神的秩序そのものが狂気と紙一重であることを音響によって可視化しているのである。
一方エンドロール直前で流れる「Fame」は、ジャックの〈自己神話化への欲望〉の皮肉な成就を示している。この楽曲はボウイがアメリカ的有名人文化の空虚さを嘲笑したものだが、ここではジャックがようやく「伝説」になった瞬間に使われることで、その崇高さがナンセンスな滑稽さに変わる。彼はついに“悪のカリスマ”となったが、その瞬間に彼の物語は終わり、奈落へと堕ちていく。
つまりバッハとボウイはそれぞれ「構築と崩壊」「秩序と嘲笑」の二極を象徴しており、これらが共存することで作品はさらなる多層性を帯びているのである。
■ 建築されるべきは何だったのか?
『ハウス・ジャック・ビルト』は殺人鬼の物語であると同時に、自己を神と同一視する芸術家=創作者の物語である。ジャックが建てたかったのは家ではなく“永遠の物語”であり“神に到達する構造体”であった。
だがその構造体は未完のまま崩れ落ちる。なぜならその基礎にあったのは他者の命を犠牲にした傲慢であり倫理の欠如そのものであったからだ。
ラース・フォン・トリアーはあらゆる善意の仮面を剥ぎ取り〈悪と芸術のあいだ〉にある危うい美学を突きつけた。観客は最後に問われることになる——あなたはこの家に一度でも入ろうと思ったか? その問い自体が本作の呪いであり美である。


