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夢と現実の罠──『オープン・ユア・アイズ』が開く、もうひとつのまなざし

  • 執筆者の写真: Yu-ga
    Yu-ga
  • 5月30日
  • 読了時間: 6分


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🎥作品名:『オープン・ユア・アイズ (原題:Abre los ojos)』

監督:アレハンドロ・アメナーバル

撮影監督:ハンス・ブルマン

出演:エドゥアルド・ノリエガ、ペネロペ・クルス、フェレ・マルティネス、ナイワ・ニムリ

公開年:1997年

ジャンル:サイコスリラー/SF/ロマンス

上映時間:117分



 アレハンドロ・アメナーバルの才能は、処女作『テシス/次に私が殺される』において既に明らかであったが、続く『オープン・ユア・アイズ』においてその多層的な構造と哲学的主題への探求はさらに深みを増した。本作は表面的には記憶喪失を巡るサスペンス・スリラーの体裁を取りつつも実のところは“人間の主体性”と“現実の脆弱さ”を問いかける極めて内省的な映画である。

 映画の冒頭、無人のマドリードを車で走るセサルのシークエンスは、ただの夢という枠にとどまらず観客の知覚自体に揺さぶりをかける開幕である。都市が無人であるという不自然さ、しかしそれが映像的に美しいという違和感──その「どこかがおかしい」という感覚が本作全体のトーンを決定づけている。

 アメナーバルは哲学者デカルトの「我思う、ゆえに我あり」に通じる主観と実在の関係性に取り組む一方で、現代における“夢見る技術”への警鐘も鳴らしている。セサルの物語は一人の男の精神の崩壊を描くと同時に、現代人の自己同一性がいかに虚構に依拠しているかを浮き彫りにするものである。


■ 登場人物が映す捻れた欲望の鏡像

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 セサルは、容姿端麗で金銭的にも恵まれた“勝者”としての典型的な人物である。だが彼の内面には自己の価値を他者の視線によってしか確認できない脆さが潜んでいる。享楽的でありながらもどこか虚無を抱えた彼の生き方はヌリアとの関係に象徴されるように、愛を所有物として扱おうとする傾向によって暴かれていく。

 そのセサルが初めて「愛した」と感じたソフィアの存在は映画全体の重心であり、同時に最も謎めいた存在でもある。彼女の魅力はペネロペ・クルスの自然体かつ詩的な演技に負うところも大きいが、それ以上に彼女がセサルにとって“理想の愛”の具現であるがゆえに、後半でその存在自体が不確かなものとなっていくことに物語の核心がある。

 ヌリアはソフィアとは対照的に情念的で執着の象徴のような存在である。彼女の「愛してるからこそ、あなたのすべてを壊したい」という狂気は恋愛感情がいかに所有欲や嫉妬と絡み合っているかを体現している。この二人の女性像はセサルの欲望の二極を表しており、最終的に彼はその狭間で自我を崩壊させていく。


■ 映像表現と時間構成の奇跡

 本作の映像は、その冷たさと柔らかさが絶妙に交差する構成となっている。日常のシーンには自然光を多用しセサルの浮遊感を強調するようにロングショットが用いられているが、夢の中に閉じ込められて以降は色彩が退廃的になりカメラは彼の周囲を監視するかのような運動を始める。ブルマンの撮影は単に美しさを追求するのではなく、登場人物の精神状態と同期するように構築されている点が特筆すべきである。

 また、時間構成の妙はアメナーバルが脚本家としても優れている証である。物語は線形ではなく現在と過去、夢と現実が頻繁に切り替わる。しかもそれらが“回想”として語られるのではなく登場人物の“体験”として提示される点で、観客自身が混乱の渦中に引き込まれる。これは『メメント』や『インセプション』のような後年の作品に先駆けるスタイルでもある。

 この構成により観客はセサルの記憶に沿って物語を追いながらも、どこまでが現実で、どこからが夢なのか判断する基準自体を失っていく。そして最終的にはセサルが感じる“世界への違和感”を文字通り「体感」することになるのである。


■ 科学技術と魂の取引──L.E.との契約

 現代SFの多くがテーマとして取り扱う「死後の世界」と「仮想現実」の交差点に、本作の“L.E.”は位置している。Life Extension(生命の延長)を掲げるこの企業は死の恐怖に対する人間の欲望を商業的に利用する冷徹な存在であり、その提示する“生き続ける夢”は死を回避する代償としての「現実の喪失」を象徴している。

 セサルがこの企業と契約するのは、肉体的な損傷、恋人を失った喪失感、そして自我の崩壊という三重苦の果てである。だが彼が得たのは理想的なソフィアとの関係や若き日の自分ではなく、それらの歪んだコピーだった。L.E.の技術は夢を再現することはできても魂の真実までは再構成できなかったという点に、本作の恐ろしさと深みがある。

 この構図は現代の仮想現実技術やAIによる人格の再現といった話題にも先駆的に接続しており「永遠に生きること」が果たして幸福かどうかという倫理的問いを突きつける。L.E.との契約は死を回避する代わりに自我の尊厳を引き渡す契約であり、まさに“魂の取引”そのものであった。


■ ハリウッド・リメイクとオリジナルの格差

 ハリウッドによる『バニラ・スカイ』は原作のプロットを踏襲しつつも、そのトーンとメッセージにおいては大きく方向性が異なっていた。トム・クルーズのスター性を前面に押し出し、物語はより恋愛ドラマ的な文脈で消化され、アート性よりもエンターテインメント性に傾倒した作風となっている。

 リメイクにおいては「夢と現実の曖昧さ」というテーマは残されているものの、それが観客の実存的不安にまで訴えかける力は弱まっている。アメナーバル版の持つ、どこにも逃げ場のない閉塞感、痛みを引き受けて生きるという選択の重さは明確な説明が与えられることによって軽減されてしまっている。

 ペネロペ・クルスの再登板は興味深いが、彼女の存在そのものが“幻想”であるかもしれないという本質的な問いが、ハリウッド版ではあくまで「愛する女性の幻影」に矮小化されている印象が拭えない。


■ 結末に託された「目を開ける」という行為

 「目を開けろ(abre los ojos)」という命令は、映画を貫く最重要キーワードである。それは単なる比喩ではなくセサルにとっては命を賭した行為であり“真実の受容”そのものを意味する。この瞬間、彼は夢から覚めるだけではなく「自分自身の弱さ」と向き合う覚悟を決めたのである。

 夢は現実よりも優しい。だがそれは現実から逃げるための空虚な隠れ家に過ぎない。現実には痛みがあり、喪失があり、孤独がある。だがそれでも人は、その中にこそ自分自身を見出さなければならない。セサルの選択はすべてを失ってなお「本当の自分」として生きようとする尊厳ある自己再生の物語である。

 ビルから飛び降りるという極限の選択は死を意味するように見えて、実は“再誕”のメタファーである。ここに至って初めて映画のタイトルが持つ真の意味が観客に突きつけられるのである。

■ すべての“逃避者”に突き刺さる静かな叫び

 『オープン・ユア・アイズ』は、ただのサスペンスでもSFでも恋愛映画でもない。それらすべての要素を内包しながら人間の意識の根底を揺さぶる作品である。それは一見すると複雑で捉えどころのない映画であるが、実のところは極めてシンプルなテーマ──「人は何を信じて生きるか」という問いを徹底的に突き詰めた作品なのである。

 この映画を観たあと、自分の人生、記憶、夢、愛する人、死への恐れについて、無意識のうちに考え込んでしまうだろう。それこそが本作の真の力である。

観終わった後、ふと自分の目の前にある現実がどこか薄膜を通したように感じられる。それでもその現実を生きるしかないと受け入れること──それが、セサルの決断が私たちに伝える、静かな叫びなのだ。

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