家庭という密室、映像という凶器 ── 『ベニーズ・ビデオ』が映し出す現代暴力の肖像
- Yu-ga

- 5月27日
- 読了時間: 6分

🎥『ベニーズ・ビデオ (原題:Benny’s Video)』
監督: ミヒャエル・ハネケ
撮影監督: クリスチャン・ベルガー
出演:アルノ・フリッシュ、アンゲラ・ヴィンクラー、ウルリッヒ・ミューエ
制作国: オーストリア/スイス
公開年: 1992年
ジャンル: ドラマ/サイコスリラー/社会批評
上映時間: 約105分
「ハネケの映画は観客を殴る」と語られることがある。感情的でも情緒的でもない。無音の冷気を纏ったその殴打は、理性を持った観客の“倫理的な眼球”を撃ち抜く。その中でも『ベニーズ・ビデオ』は最も静かで、最も無慈悲な一撃だ。本作は単なる少年犯罪を扱った作品ではない。映像メディアの浸透によって倫理と現実感覚を喪失していく現代社会そのものの「縮図」であり“我々がスクリーンを通じて何を見て何を見逃しているのか”を突きつける鋭利な鏡だ。
■映像の中で殺される:暴力を“見せない”恐怖
本作でベニーが少女を殺害する場面は観客に対して露骨な暴力描写を見せない。しかしそれは「残虐シーンを控えた」わけではない。むしろその逆だ。ハネケは固定カメラの記録映像という形式で殺人を捉え、それを“観る”ことの倫理的衝撃を観客自身の内部で引き起こさせる。
観客はベニーと同じ位置に立たされる。彼と同じくスクリーン越しに暴力を「観察」しているのだ。ここでハネケが明示するのは“映像を見る”という行為そのものに含まれる暴力性である。これはニュース映像、映画、SNS動画といった現代のすべてのメディア体験に対して有効な問いとなる。
■家庭という温室、倫理の断絶
ハネケが恐ろしく的確なのはベニーの家庭を極めて「普通」に描く点である。両親は高学歴で中流階級の典型。教育熱心だが放任主義、金銭的には不自由がなく日常の表面にはなんの亀裂もない。
だがその裏には親の関心の欠如、会話の欠落、感情の不在が静かに広がる倫理的空洞として描かれている。
ベニーの母は息子の様子に違和感を抱きながらも見て見ぬふりをする。父は家族の体面を守ることだけに集中し実体の伴った対話を持とうとしない。
つまりこの家庭は「暴力を育む温室」なのである。抑圧的でも過干渉でもないが、関係の薄さ=倫理の無重力空間がベニーの人格を“観察者”へと変容させてしまう。
■「見ているだけ」の罪
ベニーが少女を殺すシーンで重要なのは、彼がカメラで撮影しながら暴力を“再演”しているという構図である。これは現実と映像の境界が彼にとって無意味になっていることを示す。
しかも殺人後も彼はパニックを起こさない。むしろそれを再生し、編集し棚にしまう。この行為はまさにメディア的処理だ。彼にとって現実の事件はスクリーンを通して“完結”するべきものであり、自己の内面や倫理的判断にまでは届かない。
ハネケはこの構造を通じて、観客自身にも問いを投げかける。「あなたも彼と同じようにただ“見ているだけ”ではないのか?」
■親の沈黙、社会の共犯

本作で最も戦慄する展開は、両親がベニーの殺人を知った後の行動だ。驚くべきことに彼らは犯行を責めることもせず警察にも通報しない。むしろ旅行に連れて行き、証拠隠滅を進め、家族としての「平穏」を取り戻そうとする。
この展開は単なる親の異常性を描いているのではない。ハネケが描くのは「倫理より体面を優先する社会」の縮図であり、権力と金と沈黙によって暴力が覆い隠される現実構造である。
またこの構図は、国家や企業による暴力、制度の不正、戦争といった構造的な暴力の隠蔽メカニズムと重なって見える。家庭の問題であると同時に社会全体の病理を象徴する図像なのである。
■映像の“非演出的”演出
本作の撮影を担当するのはハネケと長年組んでいるクリスチャン・ベルガー。彼の撮影スタイルは三脚固定、パンもズームもほとんど使わない静的構図である。だがこの「動かない」カメラこそが映像に圧倒的な緊張感を与える。
演出も極力抑制され、感情を煽る音楽や編集技法は排除されている。この冷徹なスタイルが観客を「感情」ではなく「理性」で映画に向き合わせ問いを突き立てる余地を残す。
つまり、ハネケにとって映画とは“意味を押しつける装置”ではなく“考える余地を与える装置”なのだ。
■テクノロジーによる感覚の切断
『ベニーズ・ビデオ』の恐ろしさは、映像を撮る・見る・編集するという一連のテクノロジーが人間の感覚や倫理といった“温度”を完全に遮断する装置になっていることにある。
ベニーは日々、動物が殺される映像を繰り返し見ている。彼にとって暴力は“記録された現象”であり、そこに痛みも命も存在しない。そしてそれは現代における映像文化 ──SNS動画、監視カメラ、ドライブレコーダー、映画、ニュース、ブログ、バイラル映像など──の根源的な問題とも重なる。
「映像で見たものは、現実ではない」と感じてしまう私たち。『ベニーズ・ビデオ』は、それがどれほど危うく倫理を切断してしまうかを突きつける。
■ベニーは“普通の少年”であるという恐怖
アルノ・フリッシュが演じるベニーは端正な顔立ちで無口、そして時に穏やかな微笑を浮かべる。だがその無垢さこそが、この映画の最も恐ろしい部分である。
彼は精神異常者でもなければ特別に過激な思想を持っているわけでもない。極めて“凡庸”であり“匿名的”である。
ハンナ・アーレントが『イェルサレムのアイヒマン』で語った「悪の凡庸さ」──つまり、巨大な悪が極めて日常的で平凡な個人によってなされる可能性──を、ベニーという存在は体現している。つまり我々の社会が育むのは狂人ではなく“倫理の回路を閉じた凡人”なのだ。
■スクリーンのこちら側にいる“加害者”
映画の終盤、ベニーは旅先で突然「僕がやりました」と告白する。だがその言葉には罪悪感や懺悔の気配はない。ただ「事実を語る」という無機的な報告に過ぎない。
この結末は観客にとって救いではない。むしろ「それでも暴力は何も変わらない」という冷酷な現実が突きつけられる。
観客は物語を「観てきた」ことによってベニーの無関心と共鳴し、沈黙し、あるいはその暴力性の一部となっている。「映画を観る」という行為の根本的な倫理が問われ続ける。
■「見る」という暴力、「映像」という凶器
『ベニーズ・ビデオ』は映画そのものの在り方にメスを入れる危険な作品である。
それは観客の感情を操作せず、物語を娯楽に変えず、ただ“世界の真実”を突きつける。暴力とは何か。見るとは何か。そして我々がスクリーンの前でできることはただ“目をそらすこと”しかないのか。
ハネケはその問いを冷たい映像の奥から発し続けている。そしてその問いは今この瞬間も、観客という名の“無言の共犯者”の胸に突き刺さっているのだ。


